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簡単に手に入るもの、それは欲しいもの、ではない。

週末、人知れず、山へ。


時々、いつもの、当たり前を、踏み外したくなる。
しかしこの社会にはルールというものがあるから、人に
迷惑をかけるとかそういう類のことは、もってのほか。
けれど、どうしても外の側に行きたくなる。
当たり前の人々のいる中に身を置いていると、なぜか
呼吸がしづらく感じることがある。
そんな時、山は最高でも最低でもなく、ありのままそこに
あって、いつも見ている太陽も緑も、輝きが増して見える。
つまりこれだ。私が人知れず見たかったもの。

人といること。

1年前は、孤独感に苛まれていたが、ふっきれたのか、何が
きっかけか分からないが、誰かと一緒にいる、その当たり前に
ずっと身を置いていると、急に、何が楽しいのかとか、考えることを
勝手に始めている。結局、考えることは崇高な趣味であり、必要性に
迫られてのみの生産性のある行動とは真逆のことをすることで、
私は私を確認している。きっと定められたルートばかりあるいているのが、
すぐに飽きるのだ。つまらない。そこにとどまる理由を考えてしまう。

高い場所から街を見る

山を登れば、必ず一度は、街全体を一望できる場所がある。
そこまで標高が高くないので、正直、物足りなさもある。
しかし、人間が作り出した世界を改めて見てみると、自分自身も
また客観的に見ることが出来る。楽しいと思っている自分、
つまらないと思っている自分。私は私でありながら、常に外の
側にいる。この感覚がつかめると、案外、楽だ。俯瞰的に、とか、
そういうかっこ良い言葉で言っても良いのかもしれないが、まあ、
そんな言葉を使うのもなんだか違う。

あいさつ

山ですれ違う人は、街を歩いてすれ違う人の数より、ずいぶん
少ない。街を歩いている時にすれ違う無数の人にあいさつなどしない。
1人も。
けれど、山ですれ違う1人1人には、あいさつをする。
多数にまぎれるのではなく、少数の側にいる。
うまく伝えられないが、こういう感覚が、私の喜びだ。
大勢に紛れるのは簡単だ。あるいは、楽なのかもしれない。
しかしそれは私にとって、何ももたらさない。
いつも逆風であったとしても、私は、少ない側にいることが
結局好きなのだ。生きづらいとか、そんな悩みは吹っ切れつつある。
そんなのも、誰もが感じられる感情ではない、もはや、大切にしても
良い。

優越感は、案外、ある。

当たり前を疑う。誰もが素通りするであろう当たり前こそ、
私が、いったん立ち止まってみるべき部分だと思う。
結局、私とはそういう人間である。
それは、万人受けするわけではないし、そもそも、
必要に迫られているわけではない。しかし、一瞬でも、
その中で、誰かがうなずいたり、目を光らせたら、それは
当たり前に見ている景色よりずっときれいだ。欲しいものは
簡単に手に入らないから、追いかける価値がある。
ずいぶん抽象的な書き物になってしまった。

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