ギリギリで生きる。なにかを探す。
単純に走ることが好き。それ以上でもそれ以下でもない。
久しぶりに4月は2度、レースに出た。
いずれも、トレイルラン。
コロナであらゆる大会が消え、それと同じくして、というわけではないが、
私自身も、走ることへの意欲が消えた。
何のために走る、なぜ、誰のため。
考えても答えなど出ないことは分かっているが、
人との接触もなくなり、ひたすら考える時間だけが私に与えられている
ような気がした。昔からそうだが、「何もしない」というのが、出来ない。
何かしないといけないという切迫感のようなものに常に駆られているせいか、1人になると、ひたすら考えることだけに没頭していた。今もだけど。
型にはまらないことはだめなのか。
1人でいることが嫌すぎて、誰でも良いから誰かといたいと思うこともあった。もう思い出しくもないので、過去は流して捨てているが、
自分1人でいる寂しさや孤独を埋めるために誰かといても、
それは本当に自分のやりたいことなのか、そそのかされた欲望でしかないのではないか。結局、誰かの背中を追いかけることに疲れた。私はたぶん、人間が好きじゃない。なんとなく、その頃、いや、小さい頃から分かっていた。コミュニケーションが嫌いではないが、根本的に、考えが合わない。
合わせる努力だの、空気を読む努力だの、その努力が分からない。
山と向き合う。
久しぶりのレース。
鍛えた体でもなく、幾分、筋肉も落ち、やる気の出なかった体は、
スタートラインに立った時、周囲のそれなりに鍛えているような人と
比べても、ずいぶんふにゃふにゃになっている。それでも、走りだすと、
以前と変わらない高揚感に包まれる。何もかも、なんでもOKなのだ。
自然界とは、そういうものだ。まさに、型にはめられていない。
木の生え方や、枝の方向、岩のつくり、すべてが、自由だ。
私にはこの世界が必要だと感じた。
山を走るのだから、順位はつくわけであるが、そんなのは後付けで良い。
大事なのは、山と、自然と向き合うこと。自然の中に身を任せると、
私はこんなにも楽でいられる。こうでなければならない、そうしないと
いけない、そんなことはいっさいない。
幸せすぎる。少しきつくなった体も、どうにでもごまかせる。
常に何か足りない。常に不満足であるということ。
レースが終わり、いつもの街に帰ってきた。いつもの風景。
いつもの1人。着飾った人々と、楽しそうに話す人々と、今日、
私は何回すれ違っただろうか。私には、常に、何かが足りていない。
そんな気持ちで山に走りに行き、体を限界まで追い込んでも、
やはり、自分が何を求めているのかは、探せていない。
それは山の中にあるものでも、日常にあるものでもない?
ないのなら、作らないといけない?それは、自分が求めていること?
そんな頭の中のグルグルした気持ちと一緒に、私は、常に不満でしかない。
満足ってなんだろう。どこまで行けば、何をすれば、満たされるのか。
満たされることが良いのか。
私には不満足であることが、いつもエネルギーになっているような気も
する。
だから、たぶん満たされることを求めているわけではない。
それでも、見えない光をずっと探していること自体は、悪くないよね?
ギリギリまで追い込むことで、私は生きていることを実感できる。
生半可では、足りない。
リアルに生きていたい。かっこよく言うなら?
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