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『ニコマコス倫理学』第4巻-その他の<性格の徳>および悪徳

哲学初心者の僕がアリストテレスに向き合う。今回は第4巻(第1章〜第9章から成る)を読んでいく。
基本的に人の様々な場面における両極の事例(=悪徳)とその背景を構造的に分析し、その上で「中庸」であることが「徳」であるとしているが、様々な事例に対して中庸の部分については名前がないとしている。

概要

人間社会における様々な場面の「両極端」の状態を事例に挙げながら、「中庸」の状態であることをアリストテレスは論じている。
(私見:それぞれの事例が現代社会においても具体的に動画イメージで思い浮かぶくらいのものであるから、それだけ古代ギリシャから人はあんまり変わっていないとも言えるだろう。)

挙げている事例は次の通り。それぞれの項目が「中庸」の状態であり、左側が「不足」、右側が「超過」状態を指す。

①気前の良さ
・けち↔浪費
 似たようなところであるが、「財貨」の贈与と取得といった使い道とその入手方法によって、大きな違いがある。ここで重要なことは「善いこと」「美しいこと」かどうかが違いを生み出す。

②度量の大きさ
・狭量↔俗悪・悪趣味
「財貨」に関連するものではなく支出に関するものであり、規模は気前の良さを上回る。状況を踏まえて、どのような支出をするかで決まってくる。必然的に支出ができない貧しい人には不相応になる。

③高邁
・卑下↔うぬぼれ
偉大さに関することであり、自分の状態についての評価をどのようにするか、様々な状況や相手に対して、どのように振る舞うのかによって決まってくる。

ここまで挙げてきた事例は「中庸」の状態について名前が付いているが、以下の事項については名前がなく、両極端が互いに対立しあっているように見える。

①名誉
・名誉心のない人↔名誉愛好者

②温厚
・恨みを抱く人↔怒りっぽい人・短気な気質の人

③人づきあい
・意地の悪い人・喧嘩っ早い人↔愛想よし(ご機嫌取り)・おべっか使い

私見

後半の財貨等のわかりやすい状態ではないこと、つまりは様々な社会状況における心理状態について、「中庸」であることの大事さを理解しつつも、なぜ名前が付けられないのかを図にして考えてみた。

中庸のイメージ

上記のイメージ図のように両極端の事例には名前が付いている。わかりやすく、なおかつ誰もがその事例を身近に思い浮かべやすいからではないだろうか。それに対して、中庸は状況に応じて変わるし、人によっても変わる。変えるといってもよいだろう。つまり「中庸」には幅がある。
この結果、ちょうど中間ということも無いということだけではなくて、「中庸っぽい」範囲の中を両極の状態に行きかけたときに一定のどころで自制して踏み留まり、両極のところまで「行き切らない」状態、あるいは「表面に出さない」状態を保っていることが「中庸」と言うのではないだろうか。

グラデーションの範囲内の真ん中周辺が「中庸」

このようにグラデーション的に薄いところの範囲を状況や相手によって使い分ける、あるいは両極の状態まで行き切る手前で踏みとどまるということになるだろう。
0−100の分かりやすい状態ではないため、名付けができないあるいはしにくいのだろう。
それゆえに両極を認識し、自分の状態を客観的に把握して、グラデーションの色が濃くなる前に押し止めることができる精神力を「中庸力」とでも名付けられるのかもしれない。この状態に至るには様々な人生経験の中で多様な人の状態を理解し、そのような人の背景把握をした上で、自分の精神をコントロールしていくことが求められるだろう。いきなり中庸力の高い人間などは存在しない。だからこそ、茶道や禅などを武士という極限状態に置かれる人たちが必要としたということも頷ける。(一方で、その中でも両極の人の性格が現れてくるのではあるが)
アリストテレスは、生まれや努力も含めてそういう地位にある人が、この状態になるのに近いという言及があるが、個人的にはこのあたりは時代状況を感じてしまう。人はどのような状況に置かれても、様々なことから学び取り、中庸力を高めることができるということを信じたい。

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北林 功(Isao Kitabayashi)
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