【 #読書感想文 】ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』
本記事はジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』の読書感想文である。用語解説は行わないので、気になった方は各自その意味を調べ、興味が湧いたら本書を読んでみてほしい。
序(あまり関係ない話)
東浩紀氏の『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』を読み、読書感想文を書いてから早2ヶ月。同書は私が現代思想に興味を持つきっかけとなった本だった。そのなかで援用されたシミュラークルという概念を通して、私はフランスの思想家ジャン・ボードリヤールに出会った。
しかしいざ主著のひとつ『象徴交換と死』に手を出そうと思っても、何が記されているのかさっぱりわからないではないか。なにせ当たり前のように援用あるいは批判的乗り越えが試みられている記号学、マルクス主義、フロイト─ラカン派、その他さまざまな哲学や思想、精神分析などの用語やその意味をまったく理解していなかったのだ。
ゆえに私はひたすら遠回りをしてきた。いくつか現代思想やジャック・ラカンの入門書を読み、記号学をより深掘りした。またそれらの理論を援用した現代(21世紀)の日本語文献に触れた。
『動物化するポストモダン』とともに大変参考になった書籍は、斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』と『キャラクター精神分析』である。難解と言われるラカンの分析手法を巧みに扱いながら「戦闘美少女」や「キャラクター」「キャラ」といった表象を分析されている。他にもいくつか読みはしたが、やはりしばしば「オタク」という名のもとに集合される者のひとりとして、虚構のリアリティの文脈について論ぜられたものはすっと頭に入ってくるのだった。
そうして『象徴交換と死』に戻ってきた。間違いなくいまの私が読むにはまだ早いものだったが、相当刺激的な読書体験となった。
『象徴交換と死』 感想
ひととおりの所感
語弊を恐れずに言えば、これは文字通りの思想だ。消費社会論が主ではあるが、死という概念も扱う風変わりな著作となっている。
唯物論を徹底的に攻撃しているため、非常に独我論的な論述であるように感じる。しかし本書は常識を疑うことの大切さを教えてくれるのだ。
浮ついた足元をどう地に着けるかは、読者ひとりひとりに託されているのだろう。これからは彼の他の著作にも目を向けつつ、一方で『象徴交換と死』は何度でも読み返さなければならない。
暴力的すぎないか?
受け入れがたい主張も多々ある。なんでもかんでも同質化させてしまうシミュラークルや、現実性の水準を一意に定めるハイパー・リアルは特に暴力的だ。
私はひとりひとり、そしてひとつひとつのものに現実性(リアリティ)が存在すると考えているため、それらを単一の世界観として統合することには断固として反対である。
シミュレーションの世界を破壊する
本書を読み違えると、ボードリヤールが血の流れる革命を扇動する者に思えてしまうかもしれない。彼の挙げる象徴交換の例は過激であり、ときには自身の死をもって社会のシステムに死をもたらすという贈与のかたちが描き出される。「システム自身は、死と自殺の多面的な挑戦に応えて自殺しなければならない」*1 という一文からも、その危うげなニュアンスが読み取れることだろう。
しかし彼はこのような行為を推奨してるわけでは決してない。むしろ別の革命かたちを模索しようとしていることを読み落としてはならない。それが詩的実践である。あらゆるシステムが包含する線状性を、アナグラムの力で破壊するのだ。残念ながらその実効性は不明だが、自身で築きあげてしまったシミュレーションの世界観を、どうしても打ち砕かなくてはならないという彼の強い信念が伝わってくる。
精神分析の独特な解釈
フロイト─ラカン派の精神分析の理論を、あまりにもラディカルに扱っている点は批判しておこう。否応なく人は生まれ、そして死ぬ。それが「私たち」という不特定多数のマジョリティが共有するだけの、普遍性を伴わない価値観であったとしてもだ。
ボードリヤールは象徴交換の例示のため、未開社会(かなりプリミティヴィスムに基づいた言葉だ)に見られる私たちとは異なった死の形態を例に挙げているが、それはそれ、これはこれだ。私たちの世界では死とは無なのであり、社会活動のシステムには組み込まれなかった(だからこそシミュレーションの時代が到来したのだろうが)。
生の欲動も死の欲動も、人間は生まれたら死に到達するということを前提としている。彼は生と死の線状性をも解体しようとするうえ、「象徴界は[省略]現実界を終わらせ、現実界を解消し、同時に現実界と想像界との対立を解消する」*2 などと言う。この通りになるとすればラカンの理論が成り立たなくなり、本書で特権的な役割を与えられている象徴界もその効力を失ってしまうだろう。
彼は精神分析に対して相当に独特な解釈を見出しているが、私にとってそれを受け入れるのはなかなか難しい。唯物論にすがる者として、現実界、象徴界、想像界の関係性の保持、特に「ラカンの唯物論を保証するのに不可欠な次元」*3 とされる現実界は譲れない。
しかし詩的実践によるシステムの線状性の破壊にも意義はあると感じるため、ボードリヤールの理論を援用するに際して、どこをどう拾うかという塩梅は難しいところだ。また現実界と想像界との差異を問うてもいるわけで、前提を曲げることをいとわない彼の強気な姿勢がうかがえる。一笑に付すわけにもいかないから、頭の片隅にでも入れておこう。
この点については構造主義の限界が見えてくるように思えてならない。真に普遍的な構造やシステムというものは、果たしてこの世界に存在するのだろうか。
真実とはなんだろう
フェイクニュースを信じれば「信じなかった未来」が失われ、シミュラークルによる「現実」が現れる。そう考えたくはないが、唯物論はその土台を崩され始めているのかもしれない。ボードリヤールに言わせれば、真実と虚偽の二項もシミュレーションに取り込まれてしまうことだろう。
私は彼のいささか暴力的な理論に違和感を覚えつつも、その魂には強く共振してしまった。誰かにとっては彼の言うことなどまがいものでしかないだろう。まったく、信じたものが救われるとはよく言ったものだ。私は本書を読んだことで、この暗澹とした世界に改めて絶望し、そしてなぜだか救済されもしたのだった。
注釈
*1 ……『象徴交換と死』、p.89より引用。
*2 ……前掲書、p.319より引用。
*3 ……『ラカン入門』、p.32より引用。
おわりに
私はJamiroquai『Virtual Insanity』のことを、あまりにもボードリヤールの描きだした世界と酷似している作品だと感じている。この楽曲も『象徴交換と死』も、なんとも言えない厭世観をこちらにもたらしてくるが、それでもなお自身が生きていることを再確認させられるのだ。
また本書のあとには、林道郎氏の『いま読む! 名著 ボードリヤール「象徴交換と死」を読み直す 死者とともに生きる』を読むべきだ。『象徴交換と死』の要約に林氏による解釈が加えられており、ボードリヤール論の理解に役立つ。さらにアナグラムによる詩的実践を敷衍し、戦後日本やアメリカなどの現状に照合させていく。きっと世界の見え方が変わることだろう。
本記事では『Virtual Insanity』や『死者とともに生きる』まで触れることはできなかったが、またいずれ別の記事を執筆しようと思う。なお詩的実践を私なりに応用した私論を発表しているので、よろしければそちらも読んでいただけるとうれしい。
実に刺激的な本だった。それではこのへんで終わりにしよう。ここまでご覧いただき誠にありがとうございました。
参考文献(刊行年順)
●『象徴交換と死』、ジャン・ボードリヤール著、今村仁司・塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年
●『生き延びるためのラカン』斎藤環著、ちくま文庫、2012年
●『いま読む! 名著 ボードリヤール「象徴交換と死」を読み直す 死者とともに生きる』、林道郎著、現代書館、2015年
●『ラカン入門』、向井雅明著、ちくま学芸文庫、2016年
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