見出し画像

心を写し取る

一昨日は加藤治郎さんと堀田季何さんのシュルレアリズム対談。いろんな示唆があったのだけど、ぼくにとっては、堀田さんの該博な知識がかなり新鮮だった。

まずぼくは、堀田さんの話を聞いていて、「写実」っていう言葉が日本で混用されていることの恐ろしさを思ったのだった。この前もちょっと現役の彗星集のメンバーの方とお話していて、「こんな話あるよ」って話をしたのでいろいろもとの欄で使われていた批評用語の混乱ぶりを書いておこうと思う。

特に欄にいたとき、よくみんな「写実」「写実」って言ってて、言葉の意味が完全にズレてる事を思いだした。

特におなじみのメンバーだと、たとえば最近では佐藤理江さんがNOTEでこんな発言をしている。

 実景でないことでこの歌を否定する人は、戦争映画を見て作った歌で土屋文明に絶賛され、真相が分かった後何となく微妙な受入れ方になった渡辺直己のことなどを思い出すのかもしれませんが、なにしろ塚本は幻を写実して同じ幻を読者に見せてしまうのですから、これを究極の写実と言わずして何というのでしょう?

佐藤理江「写実、写実・・・。」


えっ、「幻を写実する」だって? そんなことできるの? それ写実なの?

と違和感を持ちながら、「でもこんな意味で写実を捉えている人、理江さんだけじゃないよな」とぼくは思い出す。つい先日もさきほどの彗星集の方が、写実をやはり「自分のこころのイメージを忠実に写す」といった意味で捉えていることに驚いてしまった。

もともとはこんなことがあった。これは2007年、新彗星第1号で笹井宏之さん、野口あや子さん、柳澤美晴さんの、メッセンジャーによる鼎談「私たちの向かう場所」での発言である。

野口 笹井さんの選はいいと思うんですが、柳澤さんの社会詠は、ときどき「歌のための社会」という感じがして疑問が残る歌もあります。

サブウェイのサンドイッチの幾重もの霧に巻かれてロンドンは炎ゆ

この歌なんかは、悲壮な社会からうますぎる修辞で逃げている、みたいな気がしますね。わたしはむき出し人間なので、想像力をかきたてられるよさ反面、社会を歌うことに苦しんでいるのか、責任が取れるのか、みたいに問い詰めたくもなります。サブウェイの歌、テロの歌ですよね。
柳澤 ロンドン地下鉄爆破テロです。
笹井 逃げないで書いてしまうと、新聞歌壇でよくみかけるような歌になってしまうような・・・。だから、おもい きり修辞を駆使して、このようにしか詠えない自分を押し出している、ある意味、むき出しの歌ではないかな、 とも採れますが・・・。
野口 笹井さんのおっしゃることもわかるんですが、た だ、「歌う自分」にむき出しであって、「生きる」にむき出しでない気がするんですよ。それが
柳澤さんの美学だろうけど。
柳澤「生きる」にむき出しって?
野口 自分の「発想」ではなく、身体、感情と絡めて歌 うのも大事じゃないかと。それはそれで閉鎖的になってしまうことがあるということも自覚していますが。
柳澤 私の場合、修辞で完成度を挙げようという意識はなくて、これはむしろ自分なりの写実なんです。
野口 え? 写実?
柳澤 うん、ロンドン地下鉄テロに対する自分のイメー ジ映像を描写した感じで、「写実」ってと言うと意味が違って混乱させるかな。ごめんなさい。
西巻 自分のイメージに対する写実ですね。

「新彗星」1号(2008年5月、グループ彗星)


わたしも自分が司会をしていたので、なんとか話を「うながす」ほうに集中していたと思うけど、野口さんが「えっ、写実?」っていう言葉がでたタイミングで私も実は、柳澤さんの発言に完全に虚をつかれてぶっ飛んでしまっていた。柳澤さんが言う、「こころのイメージを描写する」って写実っていうの?と思った。

野口さんがそのとき完璧に指摘していたのだけど、「悲壮な社会からうますぎる修辞で逃げている」『「歌う自分」にむき出しであって、「生きる」にむき出しでない気がする』「歌のための社会」という指摘は、柳澤さん自身の「ロンドン地下鉄テロに対する自分のイメージ映像を描写した感じ」という説明で完璧に説明されてしまう。しかしそのとき私は「写実」の概念がよくわかっていなかったけど、でもそれでも「なんかアリかも」くらいでその場は納得してしまったのだと思う。

野口さんが現実の作者と、仮構した「野口あや子」の間を往還する歌人だとすれば、徹頭徹尾、世界ごと「イマジナルな世界」のなかを生きたのが柳澤さんだということになる。しかし柳澤さんの「夢幻(ゆめまぼろし)」はあまりにも現実そっくりになろうとするため、現実そのものと区別がつかない。まさに「セカイ系の想」なのだ。だから野口さんのように「現実」と誤認した批判がうまれるという事態になる。

一体このような取り違えはどうして生じるのだろう。柳澤さんは徹頭徹尾「夢幻」を描くが、それが社会そっくりになるがゆえに、現実の私たちは彼女の想を「嘘」と断定する。実際は、『現実そのものと「現実にいるキャラ」を往還する野口さん』と、『ほんものそっくりの「夢幻」の柳澤さん』の間にはイマジナリティであるのだから差はないに等しい。しかし、私たちは野口さんをより近しく、柳澤さんをより遠くに感じる。だから、柳澤さん自身の夢をありのまま書いたサブウェイの歌に、「ほんとうっぽさ」をむしろ感じないのだ。

それは私達の心性がやはり「ほんとうっぽさ」を唯一の価値判断としていることの証左ではないかと思う。

ぼくは柳澤さんを一度、イマジナルな人だ、という前提のもとに読みを洗い直す必要を感じている。また、第一歌集をもう一度読み直してみたい。おそらく柳澤さんは想念が現実に無自覚に浸食している不思議な歌人であって、それは私が見てきた「リアル一択」「リアリズム一択」みたいな空気のなかで「なんとかリアルに書かなきゃ」という脅迫観念のようなものからうまれて来たものではないかと推測している。

イマジネーションが現実に似ようとする。それは私達が現実の描写以外のことにリアリティを感じないということの証左である。たとえば最近では石井遼一さんの虚構問題があったが、彼の父殺しが「嘘かどうか」が問題になるのは、現実社会のリアリティのみが価値判断になっていて、歌そのものの豊かさを見ようとしない批評態度がわたしたちに隠れていることの証明ではないか。私は彼の歌が「本当か嘘か」で判定される現代に何も関心を持たない。ただ単に「心のありようを歌えているか」で判定する。短歌は心情の美を歌うものだ。リアリズムといった西洋の価値観を一度捨て去ってみてはどうか。

さて、昨日の対談では、堀田さんから西洋では「写実」(現実をそのまま写し取ること)に対して「写意」という技法があったと紹介があり、「え、それは初耳」とおもって和英辞典を調べたが、どこにも写意という言葉が載っていない。(※2024/10/18そもそも写実と写意にも、西洋の用語と東洋の用語の混乱があると堀田季何さんから丁寧なご示唆をいただきました。のちほど記事にさせていただきます!)

私はそもそも西洋の文学理論を学んできたので、自然主義や浪漫主義のことはたくさん知っている。しかし写実に対して写意が中心概念になったような事態を全く知らない。

おや、と思ったら、そもそもこれは東洋の概念だった。しかも「日本画」の概念である。

さらにコトバンクのなかのデジタル大辞泉によれば、写意の対義語は「形似」であり、これは宋画など、日本で外形を写し取るという意味らしい。

あれ、これ、日本語?

と私はとてもびっくりした。写実は写意の対義語のようにみえるけど、実は違っていた。「写意」の対義語が「形似」なのだから、写実は一体何だという話になるのである。「写生」という技法もある。これは一体何なんだ?
きょとんとして日本大百科全書(ニッポニカ)へたどり着くと、答えが載っている。

自然や事物を実際に見たままに描くこと。中国絵画では唐末ごろから、先人の作品を写し描く伝統的な「臨画」の方法に対して、実物を観察描写する写実的傾向が強まったが、「写生」はこの「臨画」に対することばとして使われた。また宋(そう)代からは、動植物など生きたものを直接描写する意味に使用されるようになった。わが国では江戸時代に、オランダ絵画の流入に伴い、円山応挙(まるやまおうきょ)らが写生を重んじた。明治時代になると、このことばはスケッチやデッサンの西洋絵画用語の訳語にあてられた。大正期には、学童を手本の模写から解放して直接自然に親しませようという自由画教育が山本鼎(かなえ)らによって提唱されたが、その普及に伴い、学校の図画教育でも実物を前に置き、あるいは屋外に出て風景などを見たままに描く「写生」が盛んに取り入れられた。 日本での写生の意味は中国の原義とはやや異なるが、その精神はいずれも、直接自然の対象を観察することによって、形式にとらわれずにその物のありのままの姿、ひいてはその内奥にある本質に迫ろうとするものである。それは西洋絵画における写実主義や自然主義の精神と相通じるものを多分にもっているが、両者を直接結び付けて論じることは適当ではない。

日本大百科全書(ニッポニカ)WEB版(コトバンク)より

簡単にいうと動植物をスケッチするのが、写生である。雀や猫、犬などの様子をまるで生きているかのように描写するのが写生と言えるが、これを正岡子規はそのまま借りた。たとえば西洋のスケッチは、現実をそのまま見て書くのだけれど、犬や猫は別にモデルにするわけには行かない。そのまま!といってもすぐに逃げ出してしまうだろう。だから、犬の静止画像を描写するのではなく、どこかで動いている犬を「画という平面的なもの」に変換して、姿を措定する必要がある。

だから日本語でいうの写生の感覚は、スケッチとは全く様相が違う。

たとえば先人の絵をうつしとる絵画の模倣(臨画)が、修行の一形態として奨励されていた。小耳に挟んだところでは、琳派や狩野派などはかなり長い絵画の書写(これは十年単位でするもの)で技法を身に着け、琳派の場合最後の課題が「風神雷神図」なのだそうだ。つまり「型」の修行である。そもそもその絵が実物を写したものかどうかはほとんど問題にされないし、模倣するのが絵なのだから、何か山水の風景などは現実の山水ではなくて、山水という想念を模写していることになる。

こういう問題は絶対にどこかで起きている。
わたしたちは写生といって、なんとなく動植物を生き生きと書くことだと思っているかもしれないが、西洋と東洋の「姿」の背景が違うのだから、どうも短歌で提唱された写生は、かなりズレのある含意の言葉であっただろう。

ちょっと結論が難しい。最後に整理して終わる。

日本画・宋画

写意 (対義語は 形似)(想念を描写すること。)
写生 (対義語は 臨画)
写実 (これがどうやら西洋のリアリズムの翻訳として使われた(写実主義))

どうも「写実」も漢字ではもともと翻訳前の意味があったようだが、由来が辿れない。それにしても、日本は「写」という言葉を西洋の翻訳に入れているケースが圧倒的に多い。映写機とか写真はすべて写である。

日本語と西洋語の対応で、ていねいに概念を見ていくこと。これは、短歌における批評用語の混乱を解消し、古い日本語の再活性化にもつながる。また、わたしたちの使える言葉も拡張するだろう。ぜひ多くの方に考えていただきたい問題である。

本日の参考文献

柳澤さんの歌集「一匙の海」新装版が出てました! ナイスタイミング!!


よろしければサポートお願いします!! あまり裕福ではないので、本代のたしになるだけでも嬉しいです!