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リアルってなんだ?



話のまくら

1.リアルの歴史


今回は、前回の雑誌の記事、「リアリティについて」の続きである。

自分はずっと「リアルのゆくえ」とか、「現代短歌のリアル」とか、どの記事を見てもリアル、リアル、リアルみたいな現状にちょっと嫌気が差していて、昔から「みんなが言ってるリアルじゃないリアル」を考えてきた気がする。

2012年ごろ、私が評論でやったことは「遠いこととリアリティ」だった。未来短歌会の創刊者、近藤芳美さんは、第八歌集『黒豹』がものすごく有名だけど、戦争のことや思想のことを歌っているのに、なぜこんなに心に響くのか、私にはよくわからなかった。

そこで当時のことを調べて、近藤さんは日本にいて、思想のことやベトナム戦争のような遠い国の戦争や、概念のことを考えている。そういうリアルもあるんじゃないか、みたいなことを書いた文章だったと思う。

いまから考えると、この文章はリアルとリアリティ、みたいな言葉ばっかりで自分自身もなんか違和感を感じていたのだけど、いまの自分の立場から考えると、これは昔の自分が「短歌」というジャンルの中だけにいて、「短歌」しか見ていないことの証明だったと思う。より広い文芸や芸術の出来事で考えてみれば、リアルに対峙する文学運動なんて知ってる人ならスラスラでてくる。

有名なのはこれ。

クラシック重視(古典主義)↔ロマンティシズム(浪漫主義)↔リアリズム(写実主義)  

西洋では古代ギリシア・ローマ時代の美が最高で、均整のとれた合理的な美、理性重視でバランスのいいものが美しいという時代が長く続いた。馴染みある言葉で言うけど、クラシック(第一主義)イズムで、古典主義という。憧れて、筋肉のバランスを意識していたらしい。

その後、バランスバランスばっかり言ってないで、もっと人間の情感、感性を重視しようぜ、みたいな時代が来る。これが浪漫主義だ。音楽ではロマン派なんていう。情熱的な恋愛が命!とか、昔に憧れるわー。とか。そういう人間の感性を掘り起こそうとする運動だ。

(日本でも明治時代、はじめて恋愛をしてふられて自殺しちゃった人がいたけど、あれはロマン主義だったんだと思う)

感情のことだから、感情の批評や表現が大事だ。憂鬱や不安、動揺や苦悩、そして愛や夢。こんなことをよく考える。

西洋は18世紀から19世紀までこんな感じだった。

その反動でまた、19世紀から、理性が大事という「リアリズム」の時代がやってくる。あんまり感情的にならずに理性的にありのままを見つめようよ、という芸術運動だ。リアリティあるね、みたいな評言があちこちにでてくる。

詳しいことは端折るけど、日本では、19世紀に開国した関係で、リアリズムとロマンティシズムが一緒に入ってきてしまった。だからひとりの作家で二つやってるケースが多い。日本ではロマンティシズムの要素とリアリズムの要素が曖昧なまま現代まで続いていて、短歌は写生なんて言葉があったから、ロマン主義的な要素って批評から除外されたのかもしれない。

こういうおっきな流れで見ていくと、いまの短歌の批評ってリアリズムベースであることがわかる。ところが、作品にはロマンな要素もたくさんある。自分がやろうとしているのは、このリアルだけじゃないロマンの、感情の要素もしっかり汲もうよ、ということだろう(恋愛は苦手だけど…)。

2.リアル・リアリティの語源

これからリアリティに対応する批評用語を考えてみる。一番大事なのは、とにかく「辞書引き」だ。だいたい、国語辞典、古語辞典、和英辞典。あと、いま簡単に翻訳できるので英英辞典まであったほうがいい。英語はもともとラテン語なので、ラテン語の意味を知ったり、英英辞典で英語でどう言っているかを知るのは、実は日本文学の研究ですごい大事なことなのである。

              ※

まず日本語では現実の対義語を調べてみる。日本語の現実の対義語は、「理想」、とか「虚」、がでてくる。うーん。リアルって、日本語でいう「現実」の意味ではないらしい。そもそも「理想」って、翻訳が少しずれている気がする。

次に、英語で引いてみる。"real antonyms(リアルの対義語)" で英和辞書を検索する。おやおや。分野によってrealの対義語はいくつも存在している。

一番一般的なのは、
・リアル ↔ イマジン 
だそうだ。ジョン・レノンの歌詞。想像してごらん、をimagineと訳す。
リアルは現実だけでなく、存在(exict)の同義語。だから想像=イマジン(imagine)で行けるらしい。

続いて、本物とか、本当のって言う意味があるので、
・リアル ↔ イミテート(imitate)
という意味がある。これは、本物の金貨と偽物の金貨、みたいな言い方だ。イミテーション(imitation)。模造品。これもしっくり来る。

あと似たような類義語・対義語でトゥルー(true)とファルス(false)という
ものもある。これは本当と嘘。対義語は「嘘」。

他にも、専門分野で使う言葉がある。経済学の用語で、リアル・エステート(real estate)というと「不動産の価値」になる。土地とか動かせないものが不動産なので、個人のお金はパーソナル(personal)。(可)動産、つまり動かせるものという意味になる。

あと数学では、「実数」の対義語は「虚数」という。

              ※

誰が言い出したのかわからないけど、リアルの対義語にフィクション(虚構)がない。フィクションの対義語はノンフィクションで、「あれ?」と思う。日本語と英語では少しずつ意味やニュアンスがずれているのがわかるだろう。

ラテン語を見る。もともとラテン語では、リアルの語源は「res」である。これは物という意味だ。

語源が「物」だったとしたら、日本語の翻訳は簡単で、「想」にならないか?

空想、幻想、想像、夢想、奇想、想念など。なんかイマジナリー(imaginaly)で良さそうな気がする。この批評用語を(想)として使えば、だいぶ救われる歌人も多そうな気がする。

たとえば奇想で有名な石川美南さんの想像力(イマジネーション)の質や種類、その源流を当てるとかおいしそうな批評だ。

最後にもう一つ、リアリティの意味を引いてみよう。

おやおや、これは迫真性だと書いてある。英語の意味を調べてみよう。

…うん、わかった。

reality は near real みたいなニュアンスだ。つまりリアルに近いかどうか、がリアリティの英語の意味だ。リアリティがないは嘘っぽいという意味の他に、far real リアルから遠いっていう意味もある。つまり遠くへ想像を及ばせる、飛翔力とか跳躍力とか、よく現実からの跳躍っていうけど、「どれだけ遠くへとぶか」も大事なのだ。

まるで走り幅跳びみたいだ。よく、ニアサイド/ファーサイドを「近いサイド」/「遠いサイド」って実況してた昔のサッカー中継を思い出す。

3.結論


realityの対義語として、あらたにfantasy(空想)とかvision(夢の光景)なんてのも見つけた。リアルの対義語はイマジンというよりイマジナル(心の中の風景)、リアリティ(迫真性)の対義語はイマジナリティとかファンタジーとか夢幻(性)(ゆめまぼろし(せい))と言ってもいいかもしれない。

そういえば、平岡直子さんが「短歌は再び夢の時代に入った」って言ってたけど、これってこのリアルを重視する時代が後退して、イマジナルな時代が来るって(いや他ではもうきてる)ことだったのかもしれない。心象はイマジナルなので、じゃかじゃかイマジナルって使おうと思う。

私はこれから心のなかに浮かんだ想念を、嘘っぽいなんて言い方はしない。イマジナルってちゃんと敬意を持って心象風景に向き合うつもりだ。

文學界9月号の続き

本文の再引用

記事の連続性を支えるために、前回「リアリティについて」で判明した箇所を、もう一度同じ部分をそのまま「再引用」する。

③夕暮れの色の卵を割り開きこころは慣れていく夕暮れに

我妻 メビウスの輪みたいなねじれた円環、ループの歌だと思いました。卵ってかたちや色が太陽っぽいですよね。夕暮れの色の卵を割り開くというと、夕暮れを割って、 太陽のような卵を取り出したと読める。そして卵が心に引き取られて、心が夕暮れに慣れていって、また最初の夕暮れに戻っていく。夕暮れから夕暮れに戻っていくんだけど、その動きが同じ面での移動じゃなくて、次元の違う話にズレていく。

永井 「夕暮れの色の卵」は赤玉のことを言ってるのかなと最初イメージしました。この歌はとてもリズムがよくて、韻律に集中している歌だなと思います。二回「夕暮れ」を繰り返すリズムを取りながら、少しずつ夕暮れと心との齟齬をなだらかにしてい るのがとても繊細で、僕は好きでした。「割り開き」というのはイレギュラーな言い方ですよね。でもすごく効いている。

井上 私も美しい歌というのが第一印象でした。でも美の目白押しのような感じではなく、抜くところは抜いて調和の取れた感じがする。「割り開き」と同じ意味合いで、 「夕暮れの色の」も丁寧でテクニカルだと思います。夕暮れはイメージが補完されているし、「色の」と言わなくても伝わるけれど、ここで丁寧に「色の」と言うことで夕暮れの盛り上がりを強くしている感じがある。「割り開き」も開くという動作まで補完さ れて、さらに開くと言ったところで「こころ」に差し掛かるから、開かれた心、チルな感じにつながっている。最後にまた「夕暮れ」が登場するんですが、限られた三十一文字の定型の中で同じ言 葉が使われているのに全く二度目に見えない新鮮さが面白い。詠まれている、たぶん生卵の風景と相まって新鮮さがなじんでいくような、丁寧に丁寧に手入れされた盆栽のようなきれいな歌だなと思いました。

榊原 「割り開き」のような丁寧さが、「そこまで言わなくていいよ」、「ここは省いてもいい」という話にならないギリギリを攻めている技術の高さを感じました。この卵が目玉焼きであってほしくないというのが読んだ後、最後に残った気持ちです。これはやっぱり、「こころは慣れていく」の部分で卵を溶いて混ぜていてもらわな いと話にならない。卵をシャカシャカして、赤玉の殻の色と黄身の色と夕暮れの色、三つの暖色に心がなじんでいくのを見たいので、目玉焼きでは絶対にあってくれるなと思いました。

穂村 我妻さんがおっしゃったように入れ子みたいで、秀歌に多い構造ですよね。神様が作った夕暮れの中に自分が居て、その自分が夕暮れの色の卵を割る。それがどこまでもクルクル回っていくような魅力があります。
この歌は①の歌と対照的に、共同体が磨いてきた秀歌性に精度高く球を当てている印象。それは簡単なことかというと、逆にとても難しい。みんながそこに球を当てようとするから距離がどんどん延びていって、強く当てることができるのは限られた歌人だけ。高野公彦とか、小島ゆかりとか、吉川宏志とか、内山晶太とか。この人たちとあの的に当てっこするなんて、そんなの無理じゃんって僕は早い段階で思ったわけですが、 この作者は高い精度で球を当てている。秀歌性批判をいつもしている僕も、やっぱり採らされてしまうほど。①の文体を評価しながら票は入れていないけれど、こちらは採ってしまいました。

永井 この歌にある研がれた秀歌性って、穂村さんが名前を挙げた歌人たちが自然に持っている秀歌性とはちょっと違うような気がします。作り込んだうえで出てくるものというのか、そこはむしろ作者の個性、面白いところなんじゃないかなと思いました。

穂村  秀歌を作る人には秀歌性が自然に宿っていたのか。

青松 でも永井さんが言ってくれたことは本当にガッツポーズです。この歌の持っている秀歌性にはレプリカ感がある。いわゆる短歌っぽい卵があって、それを一回メタ卵にして持ってきている感じが。僕もこの歌めっちゃうまいと思ったし、よっぽど採ろうかと思ったんですけど、それこそ狙って当てている感じが採れなかった。この歌を作った人の当たりを付けたとき、 この作者なら、この歌が狙って実現しているゾーンよりも高いレベルで成功している歌が他にあるんじゃないかと思ってしまいました。

伊舎堂 完全な秀歌性に投げるとしたら「慣れていく」じゃなく「溶けていく」な気がするんですよね。「慣れていく」って醒めている言葉じゃないですか。ここで「慣れていく」というのは、秀歌性に私を渡さないための最後の抵抗に感じます。

青松 秀歌性に陶酔しきっていないみたいなことですか。

伊舎堂 そう。この作者には、そんな抵抗が常に歌のどこかしらにある印象です。もっと疲れている時に読んだらいい歌に感じるかなと思いました。こういう秀歌は、 疲れてる人が短歌に負けて作るという感じ。短歌に完全には負けないための、「慣れていく」という語彙選択に感じます。

服部 私は心惹かれたのがその「慣れていく」でした。夕暮れって何百回、何千回と 経験するから、慣れてないはずがないんですよ。そのうえで夕暮れに「慣れていく」と 言ったということは、作中主体にとって一回一回の夕暮れが毎回別のものなんだなと。卵って冷蔵庫から取り出したらちょっと冷たいじゃないですか。それを空気とかき混ぜ ることで温度が落ち着いてくるみたいな感じで、ゆっくり自分の心が夕暮れに慣れてい く。そういう言葉で表現できないものを、「ああ、心が場所になじんでいく感覚、分かる」って思わせる歌。見えないものを読者に手渡せることがすごいなと思います。

特集「短歌と批評」(「文學界」2024年9月号:株式会社文藝春秋)


さて、まくらを踏まえて永井、伊舎堂、青松、服部、榊原、井上各氏の評をみてみよう。今回は、まくらで結構がんばって引っ張ったので、このあとの無料部分が短くなるかもしれない。有料部分は300円。

(告知:メンバーシップは前回の記事も全部見れてお得!)


永井祐が見せてくれたこと

1.永井祐の問題提起


この歌会の印象でいうと、やはり永井の発言がとても簡明で良い。

きちんと歌に即して、過不足なく歌について言えている気がする。二つ引用する。まず我妻のあとで永井自身の印象を語った第二評、あと穂村の秀歌性への反論の部分だ。

永井 「夕暮れの色の卵」は赤玉のことを言ってるのかなと最初イメージしました。この歌はとてもリズムがよくて、韻律に集中している歌だなと思います。二回「夕暮れ」を繰り返すリズムを取りながら、少しずつ夕暮れと心との齟齬をなだらかにしているのがとても繊細で、僕は好きでした。「割り開き」というのはイレギュラーな言い方ですよね。でもすごく効いている。

永井 この歌にある研がれた秀歌性って、穂村さんが名前を挙げた歌人たちが自然に持っている秀歌性とはちょっと違うような気がします。作り込んだうえで出てくるものというのか、そこはむしろ作者の個性、面白いところなんじゃないかなと思いました。

穂村  秀歌を作る人には秀歌性が自然に宿っていたのか。

特集「短歌と批評」(前掲書)

穂村の「自然に宿る」発言にたいする私の苛立ちは、前記事の穂村弘批判を既に読んだ方ならご理解いただけるはずだと思う。

永井の発言は歌に即して3つある。

1つ目は、「リズムがよくて、韻律に集中している歌」で、「少しずつ夕暮れと心との齟齬をなだらかにしている」歌だという点。

2つ目は、「「割り開き」というのはイレギュラーな言い方」だが、「すごく効いている」という点。

3つ目は穂村発言を受けて、「この歌にある研がれた秀歌性」は、「いままでの「歌人たちが自然に持っている秀歌性とはちょっと違う」、「作り込んだうえで出てくる」、「むしろ作者の個性、面白いところ」だと指摘している点だ。

永井発言のまとめ

青松輝といった若い歌人が、「永井さんの言ったことにガッツポーズ」などと言っていることに、わたしは頭を抱えてしまったのだけど、そちらよりもまず、本文では実は「割り開き」問題という、一見するとほぼ見過ごされそうな小さそうで実は大きな問題が起こっていたことに気づく。

2.「割り開き」問題


この発言に対する反応をまず取り上げて、残りは有料に回す。
「割り開き」に注意して、このあとの発言を聞いて欲しい。

井上 私も美しい歌というのが第一印象でした。でも美の目白押しのような感じではなく、抜くところは抜いて調和の取れた感じがする。「割り開き」と同じ意味合いで、 「夕暮れの色の」も丁寧でテクニカルだと思います。夕暮れはイメージが補完されているし、「色の」と言わなくても伝わるけれど、ここで丁寧に「色の」と言うことで夕暮れの盛り上がりを強くしている感じがある。「割り開き」も開くという動作まで補完さ れて、さらに開くと言ったところで「こころ」に差し掛かるから、開かれた心、チルな感じにつながっている。最後にまた「夕暮れ」が登場するんですが、限られた三十一文字の定型の中で同じ言 葉が使われているのに全く二度目に見えない新鮮さが面白い。詠まれている、たぶん生卵の風景と相まって新鮮さがなじんでいくような、丁寧に丁寧に手入れされた盆栽のようなきれいな歌だなと思いました。

榊原 「割り開き」のような丁寧さが、「そこまで言わなくていいよ」、「ここは省いてもいい」という話にならないギリギリを攻めている技術の高さを感じました。この卵が目玉焼きであってほしくないというのが読んだ後、最後に残った気持ちです。これはやっぱり、「こころは慣れていく」の部分で卵を溶いて混ぜていてもらわな いと話にならない。卵をシャカシャカして、赤玉の殻の色と黄身の色と夕暮れの色、三つの暖色に心がなじんでいくのを見たいので、目玉焼きでは絶対にあってくれるなと思いました。

特集「短歌と批評」(前掲書)

井上も榊原も、まず「割り開き」が「丁寧」ということを注目して、発言をしている。「技術の高さ」とか「テクニカル」とか「きれい」ということが注目される。

わたしも一瞬騙されかけたのだけど、「あれ「割り開き」って本当に使うの?」ということにちょっと立ち止まって、辞書を引いてみてやっと違和感がわかった。

卵は割ると普通に開いてくれるので、わざわざ「開く」という言葉を付け加える必要がない。辞書やインターネットで調べると「割り開く」は、「割ったあと開く動作をする必要があるもの」に限られるように思う。

たとえば用例では、「割り開く」は、カニの甲羅を割り開く、とか、とにかく硬いものに使われている印象がある。よって、本来の意味をそのままつかって行くと、かなり力をいれて殻を割って、力ずくで卵の殻を開いたという意味になる。

そもそも「~開く」は補助動詞というけれど、たとえば「押し開く」だと、城門やホテルのドアのように、あえて開くにフォーカスして、重い扉を開くようなニュアンスになるだろう。

だから「イレギュラーな言い方」という永井の言語感覚は本当に鋭い。

3.韻律に騙されるとき


私も最初は二人の評者のように、「韻律がスムーズだから丁寧」みたいな印象を持っていて、これが「イレギュラー」とかもっというと「変だな」ということに最初まったく気づかなかった。

確かに割るだけで卵の本体は下に落ちるし、「割り入れる」なら鍋とかすきやきのお皿に卵を落とすときに普通に言う。補助動詞にもニュアンスがある。それを読み取れるかどうかは、結構「韻律に騙されない」ために大切な視点だったりするのである。

しかしわれわれは「なんとなく」意識しないまま作者の言葉の選択に「騙される」ときがある。昨日一首鑑賞で取り上げた「海の歌」なんかも、誰も何も指摘しなければこの歌の「から」がおかしいということに気が付かないかもしれない。

海の観覧車のまえではだまってたついたりきえたりするからひかり/イソカツミ

穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社)

これはまさしく穂村弘が、『短歌の友人』で指摘していた事なのだけれども、下の句の「から」はおかしな表現なのだけど、なんとなく自然に見えてしまう「奇妙さ」を持っている。

奇妙な表現がみられるのは下句である。 「ついたりきえたりするからひかり」とは、どういうことか。通常の感覚では「ついたりきえたりする」ことと「ひかり」とは、そんな風に単純に結びつくものとは思えない。つきっぱな しの光だってたくさんあるだろう。これは論理的には殆ど意味をなさないような不思議なフレーズなのである。

穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社)

わたしは批評のときは言葉に即してのみ見ることにしている。韻律に関しても「こころに沿って韻律」が作られるのではなく、「韻律の形でこころの動きが提示されるのだ」と考えている。だから韻律がスムーズだとこころもスムーズになるように読者には一見すると見える。だから、意味がちょっとおかしくても「自然に」見えるような語句がふと入っていることがあって、その「韻律からつくられるこころの姿」が、きれいだと感じる事がある。これは調べとこころが渾然一体になっているときにみられる風景だとおもう。

実際今回俎上にあげられた歌は、動作としてはほとんど何もしていない(卵を割っただけ)けど、「こころは慣れてゆく」ということで、最初は「夕暮れ」に違和感を抱いていたこころが整ってゆく、自然になってゆくという、「こころと夕暮れの齟齬が埋まってゆく」様子を歌った歌なのだと思う。

この歌がテクニカルだとすれば、そうやってこころの姿をした韻律が意味的なおかしさを取り繕ってしまうところだと思う。意味がおかしいけど心の様子をあらわす韻律が自然なので自然に見えることは短歌ではよくある。わたしたちは韻律に騙される。その詐術(トリック)には注意したほうがいいと思う。

あとは「心が慣れた」きっかけを「夕暮れの色のたまご」を「割り開」いたことに求めるかどうかが、そもそもこの歌の読みの核心なのだと私は思った。

中入り


さて、ここまでが歌の概要を含めた、「この歌の小さくて大きな問題」の部分だった。

ここからは有料記事として公開するので「頑張ってるな」と思ったり、「このあとの内容に興味があるな」と思ったらぜひコンティニューコインを投げて欲しい。

私はいま傘を差し出す大道芸人のような気持ちだけど、歌に即して自らを語るのもまた「批評という芸」の伝統だろうと思う。


伊舎堂と青松の言葉へのスタンス

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