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ピアノ調律師さんと話していたら神様の話になった話

 先日、我が家のピアノを調律してもらおうと調律師さんに来てもらった。本当はピアノの調律って一年に一度のサイクルでやるのが理想らしいのだけれど、前回の調律から数年経ってしまっているので、依頼の電話をする時はなんだかちょっと気恥ずかしい気持ちだった。伸びすぎた髪を切ってもらいに美容院に行くような心境に似ているかもしれない。いざ調律師さんがご訪問された時も、だらしなくてごめんなさい、そんな気持ちでお出迎えをした。

 独身の頃は、ピアノを演奏したりピアノを指導したりと毎日のようにピアノを使ったお仕事をしていた。だからその頃は調律の方もきちんきちんと定期的にやっていたのだけれど、結婚して地元を離れた時にいったん店じまいをしてしまったのですよね。店じまいというかピアノじまい。

 店じまいをした理由は、結婚後に夫と住むことになったマンションが小さくて電子ピアノしか置けなかったこと。これではさすがにピアノ教室は開けません。それに加えて、親元から遠く離れて、見知らぬ土地で慣れない家事に四苦八苦する私には、ピアノを弾く心の余裕などなく、いつしか私の生活から「ピアノ」の三文字が遠ざかってしまっていたのでした。

 とまあそんないきさつもあり、現在はピアノは完全に「趣味」となってしまっているのですが、なんだかね、弾けば弾くほど自分の技術力のなさにがっかりすることがあるのです。音大を出てもいないのに「ピアノが好き」という気持ちだけでピアノのお仕事をさせてもらっていましたが、やはりね、音大で何年も何年も腕を磨いていた人にはかなわないのではないか、とそんなコンプレックスを常に抱えながら仕事をしていました。それでも、「弾いてくれ」と依頼があればどこにでも飛んでいって弾き、「教えてくれ」と依頼があれば自分の休日を削ってでも生徒さんを取る。そんな風に、必要とされれば喜んで依頼を引き受けているうちに、ありがたいことに生徒さんの数は40人にまでなり、演奏活動の機会もどんどん増え。結婚して店じまいをする時にはすごいことになっていました。

 とまあこのことは、黒歴史だらけの私の人生の中において非常に貴重な白歴史ではあるのですが、でもね、どんなに商売繁盛しようとも、音大を出ていないという私の中のコンプレックスは拭えないままで、結婚して店じまいをした時は肩の荷が降りたというか、「もうコンプレックスと闘わなくていいんだ」と思ったのも事実。

 それじゃあ、「趣味」になった今なら気楽に弾くことができるのかと言ったら、案外そうでもなくて、指がうまく回らなかったり、つかえたりすると、そのたびに「あ~あ」とガッカリしたりしている。そうするとますますピアノとの距離が広がり、年に一度の調律もせずにほったらかしにしていたわけなのであります。話は戻ります。そういうわけで今回はかなり久しぶりの調律。しかも今対人恐怖症気味なので、「事務的な話くらいはできるが雑談はちときついな」とそんな余計な心配までしながら調律師さんをお迎えしたのでした。

 現れた調律師さんは優しそうな女の人です。前回は年輩の男の人で職人気質あふれるような寡黙な方でしたが、その方は退職されたのか今はもういらっしゃらないとのこと。新しく来てくださった女性調律師さんは背が高くて、話をする時に見上げるようにしないといけないのですが、威圧感のようなものはまるでなくフレンドリーなオーラにあふれています。いわゆる親しみの持てるタイプというのでしょうか。お出迎えする前に感じていた緊張感が自然とほどけていきます。雑談をされるタイプかどうかは未知数ですが、なにはともあれ「感じのいい人が来てくれてよかった」とホッとする私。

 で、今回書きたかったのは調律が終わり、調律師さんが帰り支度を始めたあたりの出来事についてです。調律師さんがなにげなく話しかけてきました。
「普段はどんな曲をお弾きになるんですか?」
 う、、っと一瞬かたまる私。どうやらこれは、お話好きタイプの可能性大です。雑談は苦手なんです~と逃げ出したくなったけれども、状況的に逃げも隠れもできやしません。こういう時に無愛想な対応をするのは人としてどうかと思うし、まあ一言二言しゃべるくらいなら、いたしかたあるまい。腹をくくった私は、自分が対人恐怖気味であることをいったん忘れて会話に応じます。「しらふじゃムリですから」と心の中で見えないお酒をあおり女優スイッチを入れる私。

 「えっと、普段は映画音楽とかJポップとか軽めの曲を弾いています。クラシックはさんざん練習で弾かされていたので、なんかつまらないというイメージがあって」
こんな風に正直に質問に答えてみたところ、大きくうんうんとうなずく調律師さん。
 「分かります。私も昔は、先生に言われて仕方なくクラシックを弾いていましたが、自分の楽しみで弾くときはこっそり安全地帯とか弾いていましたよ」
いたずらっこのように笑う調律師さん。そんな調律師さんを見ているうちに、なんだか私はもっとこの人とお話したくなりました。

 「でも今回調律をお願いしようと思ったのは、実を言うとクラシックのおかげなんです」
私がそう言うと、調律道具を片付けていた手を止めて興味深そうに聞く姿勢になる調律師さん。

 「さきほどもお伝えしたとおり、普段はポップスのような軽めの曲ばかり弾いているのですが、先日、昔習っていた時のクラシック曲の楽譜が出てきてなんとなく弾いてみたんです。先生の注意書きがあちこちに書かれてある黄ばんだ楽譜、何度も練習させられて飽き飽きしていたクラシック曲。それを弾いていたらですね、不思議となんだか厳かな気持ちになって。現代音楽を弾いている時のような分かりやすい楽しさはないのですけれど、クラシックを弾いていると、曲の背後に神様を感じるというかそんな気持ちになったんです。しばらく調律をしていなかったから音が出づらい鍵盤があったのですが、ポップスを弾いている時は音の不具合とかあまり気にならず、まあいいやと弾き流していたのに、クラシックを弾いていたらなぜか一音もおろそかにしたくないという気持ちになって。それで、クラシックを弾き終わるやいなや、衝動的に調律依頼のお電話をさせていただきました」

 調律師さんは真剣な顔をしてうなずいてくれます。「私もね、昔はクラシックに反発して安全地帯とか弾いていましたが、今改めてクラシックの良さに気づかされることがあります。クラシックは深いんですよね。音の重なり方、メロディの流れ方、すべてに深みがあるなあと感じます」

 さらに調律師さんはこんなお話をしてくださいました。
 「さきほど、クラシック音楽の背後に神様の気配を感じるとおっしゃっていましたが、私もね、そのような感覚を覚えることがあります。別に宗教に興味があるわけではないのですが、黒人霊歌や聖歌の歴史などの授業を受けていたことがありまして、その授業がけっこう好きでした。音楽と神様って深い関係があるような気がするんです。コンサートホールのピアノを調律する時も、もちろん客席のすみずみにまで音を届けたいので、ピアノから客席に向かって横に音が飛ぶようにということは意識しないといけないのですが、でもね、音楽を天にも届けたい気持ちがあって、音が上に昇るイメージも大切にしたいと思っているんですよ」

 音が上に昇るイメージ。。

 私は、調律師さんのお話に聞き入ってしまいました。雑談がこわくて最初のうちは心の中で何度もお酒をあおっていましたが、酔っ払っている場合ではありません。姿勢を正してしみじみと聞き入る私。ただお仕事をするだけならば、確かに客席に音が届くように調律をすれば、それでお仕事の義務をはたしたことになるのでしょう。でも、そもそも音楽とはなにか、そもそも芸術とはなにか、自分はなんのためにお仕事をしているのか。きっとこの調律師さんは、その答えを探しながらお仕事をされているのではないか。私はそんな気がしました。

 まさかこんなに深い雑談ができるなんて思ってもみなくて、お話をしながら「ああなんて楽しいんだ」と思う私。雑談への恐怖心なんてすっかり吹き飛び、あと一時間くらいこの人と芸術について語り合いたいと思ってしまったほど。こんな誠実な気持ちでお仕事をしている人に出会えると本当に嬉しくなります。

 思うのですが、音楽に限らずすべての芸術活動は、本来は神様と対話するために生まれたものなのかもしれない。現実生活の向こう側にあるもう一つの神聖な世界。それを感じたくて、それを少しでも垣間見たくて、人間は「芸術」というものを生み出したのではなかろうか。調律師さんが帰られたあと私は、改めてその思いを心の中でかみしめたりしていました。

 そしてね、音楽に親しむことも、文章に親しむことも、根っこは一緒なのではないかと思うのです。どちらとも、何のためにということを突きつめていけば、神様との対話ということになるのではないかと。だから私は、ピアノを弾く時も文章を書く時も、あの調律師さんと同じような気持ちで取り組めたらと願っている。つまり、同時代の人たちに広く親しんでもらえる作品だけでなく、天にも届くようなそんな作品を生み出せるようになりたいと願っている。

 だから、その願いを叶えるためにも、たとえ指がうまく回らなくたってこれからもピアノを弾き続けようと思う。たとえ文章作法の技術が伴っていなくたってこれからも文章を書き続けようと思う。
 「現実生活」と「もう一つの世界」、その両方の世界に足をかけながら生きていくこと、それが一度きりの人生を何重にも豊かにする方法だと私は信じている。

 

 

 

 

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