低学年からできる!主体的な学び手が育つ道徳授業
●はじめに
現在行われている道徳授業は、子どもたちにとって実りある時間になっているのだろうか。本気で考え、楽しく学べる道徳授業だろうか。
教員2年目で道徳の研究発表の機会に恵まれ、大勢の人に授業を見てもらった。2年目という経験年数を加味した上で、教授や他校の先生方からかなり褒めていただいたことを覚えている。そのときの自信が今の教師人生につながっている。
ただ、私の中ではモヤモヤが残り続けた。たしかに、子どもたちはよく考え、積極的に発表し、想定していた通りの展開になる。見栄えもいい。しかし、子どもたちは私に与えられた問いについて、考えさせられ、話し合わされ、正解探しのようなことをさせられているに過ぎないのではないか。想定通りの授業展開は、教師の都合に合わせているだけで、子どもたちは主体的に考えられていないのではないか。そう思えてならなかった。
それから5年間、試行錯誤で理論と実践の往還を続けてきた。ここで一度、自分なりに見出した道徳授業の要件を整理してみたい。「発問」・「展開」・「まとめ」の三点について、問題点と解決策の提案を述べていく。
●発問を問い直す
発問における最大の問題点は、子どもが主体的に考えられていないことである。道徳では、発問(主発問)が課題にあたる。発達段階に即して課題設定を工夫することは各教科では当然である。しかし、それが道徳の発問となると、そこまで学年や実態を考慮せず同じような問い方になってしまう。「どんな思いで〜したのだろう?」「〜したとき、どんな気持ちだっただろう?」という登場人物の気持ちを問う発問はその典型だ。子どもたちは教師に聞かれたものだから頑張って答える。子どもたちはまったく悪気なく正解探しをしてしまう。この教師に考えさせられている状況を打破しなければいけない。子どもたちの頭の中に思わず「?」が生まれる状況をつくり出したいと考えた。
子どもたち一人一人が主体的に課題に向き合い、本気で考えられる発問。その一つとして提案したいのは、「難易度は易しく、質は高い発問」である。難易度を決めるものは経験の有無である。経験したことは具体的で考えやすい。逆に経験のないことは具体的に考えることが難しい。したがって、「具体的で経験のあること」が発問の要件となる。では、質はどうか。全員が分かりきっていることを問いかけても本気で考えようとは思わない。これは質の低い発問と言える。逆に、よく考えないと分からないものや複数の考えが生まれて揺れ動くもの、互いの考えにズレが生まれるものは、本気で考える姿勢を生む。
小山・道田氏らの『「問う力」を育てる理論と実践』では、問いが生まれるメカニズムの一つとして、知識対立仮説が紹介されている。すでに持っている知識と新しい知識が対立する際に問いが生まれるというものである。この知識対立仮説を使えば、質の高い発問を生み出しやすくなる。今まで知っていた知識とは対立するような知識をぶつけたり、どっちの方がよいのか揺れ動くように仕掛けたりすることで、子どもたちは主体的に考えるようになる。先ほどの難易度と組み合わせると、「具体的で経験のあることだが、今まで知っていた知識とは対立していたり、どっちの方がよいのか揺れ動いたりするような発問」である。
●展開を問い直す
道徳の展開は、【発問→発問→主発問(+補助発問)】といったあらかじめ決められている単線型である場合がほとんどだ。これが実に道徳授業の面白みを打ち消している。子どもも教師も道徳をつまらなく感じる大きな原因がここにあると考える。教師のあらかじめ決めた展開に子どもを無理やり乗せる。そこから逸れた子どもの考えはやんわり退けられ、想定していた考えが大々的に取り上げられる。こんな授業をやり続けて道徳教育の目指すところに到達するはずがない。自戒の念を込めて。
ここに一石を投じるためには、思い切って単線型をやめ、複線型の授業展開を想定する必要がある。最低限の確認を済ませた後、【主発問→子どもの考えを起点に具体化(経験)⇄抽象化(理由・道徳的価値に対する考え方や感じ方、心構え)→転用(自分の生き方)】という抽象度で展開を想定する。教師が複線型の意識をもつようになると、子どもが自分なりの考えをもつようになる。その理由は簡単で、教師の答えらしきものを探そうとしなくなるからだ。自分なりの考えを認められるとき、子どもたちは驚くほど主体的に考えるようになる。
●まとめを問い直す
道徳のまとめは、依然として「閉じた終末」である。その授業で大事なポイントを押さえたり、説話でそれを念押ししたりと、いかに閉じるかを考える傾向にある。振り返りを書かせるにしても、自分の経験をこじつけてまとめ、これからの決意表明をする程度だ。実質的には、日常生活に生かされない「閉じた終末」となる。
これを「開いた終末」に転換したい。すなわち、オープンエンドの授業である。そのためには、「まとめない」ことが肝となる。考えながら終わる、対話しながら終わる、そんな終わり方も考えられる。決して終わり方を揃えないことだ。休み時間でも書き続ける子、家に持ち帰って考えを書いてくる子、家族にインタビューしてくる子が現れる。それを次の授業始めに紹介する。学級で行動に移している子を見つけたら、それも紹介する。時には、そうした子どもの事実から授業を切り出す。こうした積み重ねで、子どもたちは主体的に考え続ける学習者へと成長していくのである。
●おわりに
授業に生きる私たち教師は、試行錯誤の連続だ。この5年間、理論を学び、実践を積み重ね、子どもの事実から授業を創ってきた。地道だが、たしかに授業の中で子どもたちは生き生きと学び始めている。教師に考えさせられる時間ではなく、主体的に考える時間となっている。もちろんまだまだ道半ばである。改善すべきところは次々と見つかる。おそらくこの授業改善に終わりはないだろう。だからこそ、教師という仕事は面白い。今回、「発問」・「展開」・「まとめ」の三つの視点から、考えを述べてきた。今後も絶えず子どもの事実から授業を創り、学びを楽しむ人生を送りたい。
●参考文献
・深澤久(2004)『道徳授業原論』日本標準
・島恒生(2020)『小学校・中学校 納得と共感のある道徳科 「深い学び」をつくる内容項目のポイント』日本文教出版社
・小山・道田(2021)『「問う力」を育てる理論と実践』ひつじ書房
・前田祐二(2018)『メモの魔力』幻冬社