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なぜ「主体的な学び」は実現されないのか?

おはようございます。“学びで人生を楽しく”と掲げて日々勉強を続けている小学校教員です。  


前回の記事では、本当の意味で「主体的な学び」とはどういったものか改めて整理しました。そこでは、「主体的な学び」を語るとき、課題に依存した主体的学習の先に、「粘り強さ」や「自己調整」を視野に入れておく必要があると述べました。

「主体的な学び」とは?

今日の記事では、本当の意味での「主体的な学び」を実現するために、「主体的な学び」を阻害している要因を分析してみます。

「主体的な学び」の実現を阻害しているもの

1つ目は、「主体的な学び」に対する理解不足の問題です。前回の記事でも述べた「主体的な学び」と「意欲的な学び」を同義で捉えてしまっている方は意外と多いです。

前学習指導要領の「関心・意欲・態度」の意識で、子どもたちの「主体的に取り組む態度」を評価してしまっているケースをよく見かけます。

「意欲的な学び」を追い求めると、どうしても教師がいかに子どもを引き付けていくかを考えてしまいます。どう教材を提示して、どんな発問をするか。どれくらいの時間配分でどのように学習を進めていくか。

たしかにこれらすべてを教師が丁寧に提示していくと、意欲的に学べる子が増えていきます。

現にこれまで多くの研究授業ではこういったことに注力して検討してきたわけです。しかし、いつまでたっても教師が丁寧に学習を展開していては、学習指導要領の示す「主体的な学び」には到達しません。

「粘り強く取り組む姿」や「自己調整する姿」は、子どもが自分で学習を展開することで生まれるものだからです。

もう一度、「主体的な学び」とは何なのか、教師一人ひとりが考え直し、本気で追い求めていく必要があります。ただし、一度できた授業観を変えていくのは容易ではありません。

これまでの経験則に頼ってしまうほど、「主体的な学び」の実現から遠ざかってしまいます。経験則を活かしながら授業観を転換させていかなければいけません。

2つ目はここに大きく関わってくることで、教師が主体的に学んでいない問題です。私は教職に就いてから、学ばない人の多さに驚きました。その一方で様々な研究組織に所属して学んでいる人も多くいます。

そもそも学ぼうとしない人が「主体的な学び」など実現できるはずがないと思っています。まずは教師自身が「主体的な学び手」となり、子どもたちの学びに伴奏できるよう、日々学び続ける必要があると思います。

私は大学院生の頃、大村はま氏の『教えるということ』を読んで以下の言葉が突き刺さりました。

勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子どもたちなのです。研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます。研究をせず、子どもと同じ世界にいない教師は、まず「先生」としては失格だと思います。

大村はま『教えるということ』(ちくま学芸文庫)

もちろん学びに割ける時間は人によって限られています。自分のライフステージに応じて調整しながら学んでいくのです。

また、大人になってからの学びこそ、「主体的な学び」が求められます。公的な研修に出向き、受け身の姿勢で参加しているだけでは学びは深まりません。

しかし、私たち教師の多くは学校で「主体的な学び」を体験していません。教師主導で画一的な授業が刷り込まれているといえます。

だからまずは、教師が「主体的な学び手」となって(Ⅰ)課題依存型の主体的学習(Ⅱ)自己調整型の主体的学習(Ⅲ)人生型の主体的学習を体験する必要があります。

それなくして、子どもの「主体的な学び」に伴奏できるようにはなりません。

まとめると、「主体的な学び」が実現できていないのは、教師の理解が不足していること、そもそも教師が主体的な学びを体験していないことが要因として考えられそうです。

ここまで本当の意味で「主体的な学び」とはどういったものか改めて整理し、その実現を阻害している要因を分析してきました。阻害要因を解決していくためのアクションプランは明日以降に書いていきます。よければそちらの記事もお読みください。

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「主体的な学び」を実現するアクションプラン

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