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【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その2
出版情報
タイトル:聖徳太子: 地球志向的視点から
著者:中村 元
出版社 : 東京書籍 (1990/9/1)
単行本 : 251ページ
前回は…
東洋思想研究の世界的権威である著者中村元の紹介と、私のこれまでの断片的な聖徳太子像、それから飛鳥・奈良時代のコスモポリタン的な空気感を本書を通してご紹介した。コスモポリタンとは、すなわち地球志向ということだ。世界各国(主にはアジアではあるが)からやってきて主に仏教を伝えてくれた人々=コスモポリタン。そういう人々を通して、奈良に住む人々も時代の空気を吸い世界の香りを嗅いでいたことだろう。万国を故郷とし万民を友とするコスモポリタン的なあり方は、疫病や天災、政変などで人々の不安が晴れる間がなかった時代に、友愛と信頼を伝える希望の生き方でもあるのだと、人々に浸透していったのかもしれない。「世界は広く、また狭い」と思う人々が、現代の我々が想像するよりも多くいたのかもしれない。
聖徳太子は一義的には、当時の政治家=為政者であった。中村は、冠位十二階や十七条憲法、仏法興隆で内政を整え、当時の大国 隋に対して対等外交を行なった聖徳太子を実質的な日本の建国者ととらえた。その上で中村は聖徳太子の思想家や宗教家としての側面を伝え、聖徳太子は世界規模で思想史上の偉人であることを述べようと試みている。聖徳太子は日本の為政者であると同時に、ある種の普遍性を備えた価値を創出したのだ、と。
今回は聖徳太子が特に重要であると選んだ三つのお経『維摩経』『勝鬘経』『法華経』と、そのお経について解説した三経義疏について見ていこう。驚いたことに三経義疏は日本最古の古典なのだ。帝王といっても良い政治家である聖徳太子が説いた三経義疏は後代においても非常に尊重された。それこそが聖徳太子が世界規模で思想史上の偉人にしているかもしれない。
聖徳太子が選んだ三つのお経
聖徳太子は多忙な政治家であると同時に権威ある学者でもあった、と言ったら驚くだろうか?「天才と誉れ高いのだからそのくらいできるでしょ?」と思う?さらに難解な経典に、漢文で注釈書を書いていたとしたら?さらにさらに推古天皇を始め時の権力者 蘇我馬子や小野妹子、それからその道のプロである僧侶たちにも講義をしていたら?そしてその注釈書が後代になっても大切に伝えられているとしたら?
単なる政治家や貴人のお遊びではない。
政治家として学者として、この国に仏教を広めるとしたら、これを基礎にしなければいけない。聖徳太子にはそういう強い思いがあったに違いない。
(たぶん十七条憲法に対しても「この国の国柄を守りながら、大国に遜色ない律令国家にするとしたら、これを基礎にしなければいけない」という強い思いがあったに違いない。実際に律令国家になるのは太子の死後の大化の改新まで待たねばならないのであるが)(いえ、素人の妄想ですけどね)。
当時であっても一万種類以上あった経典の中から選び抜かれた三つのお経。
では聖徳太子はどんな経典について、どんな注釈をつけているだろうか?
三経義疏
聖徳太子の注釈書は三経義疏と呼ばれている。「日本の古典のうちで現存最古のものはこの注釈書」なのだというp159。だいぶ長くなって恐縮であるが、引用しよう。
アジアの普遍的国家の帝王たちと聖徳太子とでは、重大な相違がある。聖徳太子はみずから経典を講義し、かれの注釈書(三経義疏)が権威あるものとして後代に伝えられている。…
聖徳太子は仏教に熱心であったからであろうか。あるいは学殖が深かったためなのであろうか。たといそうだったとしても、古代ローマの末期に帝王が聖書を講義する図などは、とうてい想像することさえ困難である。…帝王が聖書を講義するなどということは、西洋では社会が許さなかったに違いない。西洋では、聖職者となった僧侶のみが聖書を講義することを許されたのであって、世俗人には許されなかった。帝王が僧侶に最敬礼しても、僧侶はツンとすましていて会釈さえしないインドや南アジアにおいては、いうまでもない。古代インドのおびただしい仏教書のうち帝王の書いたものは、何も伝わっていないようである。世俗人の著した仏教書もごく少ない。
ところが、日本ではそれが可能であり、歴史的事実として具現された。これはおそらくシナにおいて帝王が経典を講義する習わしがあり、それが日本においてまねされたのであろう。しかし、シナにおいて、帝王の講経は、のちの時代に対してさほど重大な意義を持たなかった。ところが、のちの日本の仏教では、聖徳太子は絶対的な意義を持っている。後にも述べるように、たとえ『三経義疏』が偽作であり、『日本書紀』の中の太子講経の記事が偽りであるとしても、太子にかこつけたことだけは厳とした事実である。これは宗教が帝王の権威に従属してのみ発展し得た日本における一つの宿命的・象徴的な出来事だったのである。
上の引用で中村が述べていることを私なりにまとめると…
聖徳太子は宗教(仏教)に関する講義を行い、その注釈書が後世まで権威を持って伝えられている。
1. は洋の東西を問わず他国の帝王との決定的な相違である。
日本では宗教は帝王の権威に従属した形でのみ発展し得たことと1. は深く関わりがあり、象徴的な出来事であった。
たとえ聖徳太子が講経をせず、三経義疏が偽作であったとしても、聖徳太子にかこつけた、という事実は残る。しかも1300年以上も!
んんん?中村はすごく重要なことを言っていないだろうか?日本では聖徳太子の時代から明治維新まで、天皇も潜在的に仏教徒であり、潜在的に仏教につまりブッダに帰依していた。たとえば明治維新までの上皇は僧形となり仏門に入った。だが一方で「仏教は時の権力者がよしと認めたからこそ日本で発展し得た」と中村はいう。確かにキリスト教は秀吉も家康も禁じたので、日本では発展しなかった。何やら世俗の権力=帝王と宗教とそして天皇の間で三すくみでもできそうな関係…。あるいは、{日本における権威=天皇+権力=時の為政者}=国体と宗教の関係は、個人における帰依ー心の安寧と祭祀の提供ではなく、許可ー国家鎮護となっているのかもしれない(単なる素人の思いつきにすぎないアイディアなのだが、書いてみた。とにかく中村がすごく重要なことを述べていることは間違いなさそうだ)。ここらあたりが、中村が「聖徳太子は世界規模で思想史上の偉人である」とする由縁なのかもしれない。
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太子信仰とともに盛んに描かれたようだ
「推古天皇14年(606)秋7月聖徳太子は天皇の御前で勝鬘経を講じ」たという。
絵の中には真ん中で講じている太子の他、山背兄王、蘇我馬子、小野妹子らが描かれている。
「推古天皇の前で経講し褒美をいただいた」と伝わっていること自体が重要。
そして、さらに驚いたことに、三経義疏は、奈良時代に成立した古事記、日本書紀よりも古く日本最古の古典なのである!p166 このことはもっと知られても良い事実なのではないだろうか?
維摩経、勝鬘経、法華経
聖徳太子は一万何千巻あるという大蔵経の中から、特に三つの経典だけを取り出して講義されたというp160。それが『維摩経』『勝鬘経』『法華経』である。
この三つには共通点がある。『維摩経』『勝鬘経』は世俗の人が僧侶や釈迦に教えを説くという話だ。そして『法華経』はいろいろなことが説かれていているのだが、聖徳太子が特に注目したのは「どんな世俗の職業に従事しようと、みな仏法を実現するためのもので、山の中に一人自ら身を清うするのが仏法ではない」「人に仕えることのなかに、「法華経」の真精神がある」p165という点であるという。『法華経』は小乗仏教以外の国ではアジアの至る所で、ネパール、チベット、モンゴル、シナ、朝鮮半島、日本などで尊崇されている経典なのだそうだ。
『勝鬘経』と『維摩経』について、もう少し詳しく見てみよう。
『勝鬘経』は、勝鬘夫人という王妃が仏教の教えを説くのを釈尊が横で聞いていて、「その通りだ、その通りだ」といって承認されたという筋書きであるp164。「勝鬘」とは、優れた花輪、美しい花輪という意味だそうだ。中村は「世界の宗教史上においても珍しいことであり、在家の女性が教えを説いたものが経典として伝えられるということは…驚くべきことである」p164という。
『維摩経』は、ヴィマラ・キールティ(Vimala-kirti)という長者を主題としたお経で、ヴィマラとは「穢れがない」、キールティとは「誉れ」で、「穢れなき誉れ」の音を写して維摩というのだそうだp160。これもまた、少し長いが引用しよう。
釈尊の弟子たちが維摩のところへ行くと、いろいろ質問されてやっつけられる。そして自分の至らぬことを悟らされる。最後に維摩が本当の教えをとく。そして、最後のぎりぎりの境地まで達すると、黙然無言であったというのである。…文珠菩薩は、最高の真理というのは言葉では説かれないもので、「文字もなく説もなし」という。そして「維摩さん、あなたはどうお考えですか」といって促すと、維摩はただじっと坐って黙然無言であった。文珠は、「言葉にはいえない」ということを言葉に出していってしまった。ところが維摩は身をもって体現している。無言の行を行なっている。…維摩はこの無言の行を実践して、絶対の真理というものは概念化を超えたところにあるもので、対立の彼方にあるということを表現しているのである。
おおお。深い。維摩は文珠菩薩を超えている!ところがこれはまだ続く。
ところで対立を超えたということになると、世俗の世界の外に宗教があるとすると、もうそこに対立を認めたことになる。世俗と宗教、俗なるものと聖なるものと対立することになる。対立することにおいて、宗教的な聖なるものは絶対ではない。もしも本当の絶対であるならばすべてを含んだものでなければならない。すると宗教の真理の境地というのは世俗の彼方にあるのではなく、われわれが毎日起きて顔を洗い、ご飯をいただき、茶を喫し、歩いて出かける、この平凡な日常生活の中に偉大な真理があるわけで、それを超えたところに宗教の境地があると思ってはならない。だから維摩居士は世俗の長者なのである。出家した僧ではない。
深い。深すぎる…。一方で…こうやって説かれて私が理解できる、ということは、大方の日本人が理解できる、ということだろう。そしてこの考え方に大きくは驚かない。「どこかで聞いた話」という印象がある。そりゃ、ほとんどの日本人は戦国時代にバテレンがやってきても、彼らを論破しちゃうはずだ。生活を肯定し、その中に悟りの道がある。そういう考え方を聖徳太子の頃から戦国時代までで千年、現代までで千数百年、日本人は続けているのだ。はっきりそう意識していなくでも、そういう考え方を「どこかで聞いたこと」があり、潜在的には馴染みがある。たとえ仏教を信じてはいなくても。ブッダに帰依していなくでも。生活を真面目に続けることで救われる。だから真面目に生きなさい。お天道様が、あるいはどこかで誰かがきっと見ている…。世界に対する信頼感。
こういう考え方はキリスト教では宗教改革の後に出てきたのでは?と思う。そりゃハンパなバテレンは敵うはずない…。
では次回はいよいよ中村の専門である比較思想史によって、三つの古代仏教国を比較していこう。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
中村元東方研究所 https://www.toho.or.jp/
仏教と天皇、上皇の関係
現在の因明の着地点。
因明より理解可能…かな?
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