水面に潜む、本当の真実。
水面の美しさに騙されてはいけない。
水面に浮かぶ蓮の花。
それを見て、人は何を思うだろう。
その水面下で何が起きているのか、その水がどれだけ汚れているのか。
あなたはどこまで、終わりのない水底を覗くことができるだろう。
ただそれが美しければ、それでいい。
見せかけだけの、その一瞬さえ美しくあれば、それでいい。
そう思う人もいるだろう。
『文句があるなら同じ場所に立ってから言え』と、空席のない"そこ"を指し、水中に暮らす者を嘲笑う。
彼等の持つ意見や主張、言葉なんて、まるでゴミのように。
たとえ見えなくても、水底に沈んだ”それ”は、
海や川に投げ捨てたゴミのように、私たちのもとへと戻ってくる。
いずれこの世界を根底から変える、重大な危機として。
「主人公型:審美眼」
まずここでモノの見方について話しておくことにする。
例えば、日本には生け花(華道)というものがあり、流派にもよるが正面や、決まった位置から見るときの美しさを求めるものがある。
「それを見る者の立ち位置が決まっている」こと、あらゆる方向からモノを見れなくなることを理由に、私はそれを「主人公型:審美眼」と名付けることにした。
「主人公型:審美眼」の特徴として、
これが通用するのは”命なきもの”に限定される。
絵画、写真、アート、生け花といった芸術、
テキストや書籍など正面、もしくは決められた定位置から見ることに特化したものである。
いわゆる私たち人間や動物といった命あるもの、生きる社会において、
この「主人公型:審美眼」は通用しない。絶対に使ってはならない。
この世界に、絶対的な主人公などいないだろう?
いるとしたら、それは私であり、あなたであり、あるいは地球か宇宙だ。
いるはずのない「主人公」が、そこにいる。
今の日本が抱える社会問題は「誰かが決めた価値観」に従い、従えない者は”異端者もしくは敵”とされる。
その「価値観」がどんなに理不尽で非道なものだとしても「絶対的な正しさ」として揺らがない。
その「誰か」は実体を持つものもあれば
実体を持たない「何か」という場合もある。
いるはずのない「主人公」が君臨する社会。
存在しない「世界」に従う理由、そうしなければならない社会、その仕組み。
そもそもの話として、
まずこの地球の在り方、利用方法について考えることにする。
地球とは、それぞれ異なる時間軸を生きる主人公が一つの場所に集まり、力を合わせて生きる場所。
ゲームで例えるなら、同じメーカーが出してる様々なゲームタイトル。
その主人公同士が選び放題のス○ブ○や、RPGの歴代キャラクターが集結して力を合わせて一緒に立ち向かう、オールスターのように。
地球は、その空間として提供されている場所。
しかし、そこで行われてきた多くの生き方は
”協力”ではなく『服従』である。
自分の足が誰かの足を支えること。
それを恥とするか、誇りにするか。
地球はかつて、真っ平らな土地が続いてるものだと思われていた。
当時の人々は
『自分の足元に誰かの足元があるなんて、なんておかしなことを言う奴だ。私が誰かの足を支えてるなんて、バカにするのもいい加減にしろ』と、耳を傾けることすら無かったのかもしれない。
これは過ぎ去った過去ではなく、いまも続いている「現代」の話である。
そしてそれが続いているのは、私たちの生きるこの「日本」だ。
上に立てないから許されないのか。
水底まで見れないから心足らずなのか。
正しいならば、そう思う自分なりの考えを。
間違いならば、そう思う自分なりの考えを。
なぜ、そう思うのか。
求められるのは「結論」よりも”中身”である。
誰かの決めた「正しさ」に従うとき、
”なぜ正しいと思うのか”
それを、自分なりの言葉で伝える勇気を持とう。
口に出してもいいし、文字でもいい。
絵でもジェスチャーでも、なんでもいい。
Yes/はい、No/いいえ、Neither/どちらでもない。
自分なりの考え、答えを、自分の言葉で。
補足だが、
自分なりの考えを相手に伝えるのは、誰しもに与えられた「正当な権利」である。
勇気と書いたものの、本来であれば誰もが気軽に使っていい「挨拶」のようなもの。
”伝えるくらい、いいだろう?”
重要なのは、
それを『許さない』もの。
それこそが『問題』なのだ。
これだけは忘れないでほしい。
何も思わない、どうでもいいと思うかぎり、いずれ『その順番』は回ってくる。
資本主義が続く限り、今の日本は変わらない。
お金や資産を持っている人が偉い。
肩書きや役職、学歴やキャリア、紙切れに書ける内容で判断される国。悲しいけれど、それが日本の在り方である。
どれだけ才能に優れていても、お金や環境がないかぎり『誰かの奴隷のような人生』を送るしかない。
そして、それを変えようとするとき『何が邪魔をするのか』
その人が変われない本当の理由に目を向けられる人は、果たしてどれだけいるだろうか。
・『犠牲の上に成り立つ世界がある』として、その犠牲が『自分自身』であっても、それを認めるのか。
・『犠牲にするもの、しなければいけないもの』があるとき、それに疑問を感じ、私たちは常に自問自答しなければならない。
・『あなたの求める世界』その答え、考えは自分の中にしかない。
どんな意見やアドバイスがあっても、最後に決めるのは自分である。
命ある限り、人の心は動き出す。
誰が上で、誰が下か。上か下、右か左。
その人の言葉ひとつで、右は左に変わるのか。
こんなことで足踏みをしているのは、私たち地球人、もしくは日本人くらいだろう。宇宙では、こんな概念を持つだけ無意味である。
『疑問を抱けない』ということは、誰かに『与えられた幻想を生きる』ということ。どんなときも何を真実とするかは『自分で決める』しかない。
しかし、これだけは言える。
”自分なりの考えがあるのならば、それでいい”
そうすると決めたことも、そうしないと決めたことも
自分で考えて決めたことであれば、それを貫くこともまた『ひとつの正しさ』だ。
何をしても、しなくても、
いつかは誰もが、この世界から消えてゆく。
果たして、私たち人類は、どんなことを”正しさ”として残すのか。
”現実を疑い、真実と向き合い、真相に辿り着く者”
そこにあるものを、どこから見て、何を思うか。
一ノ瀬みら
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