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『ビギナーズラック』阿波野巧也
第一歌集 308首収録
若い世代の新鮮で瑞々しい言葉に満ちた歌集。序盤の相聞歌が良い。若々しい熱さもあるが、全体に風通しのいい印象。
ぼくにはぼくがまだ足りなくてターミナル駅に色とりどりの電飾
自己の不全感に対応する電飾の華やかさ。終点駅であることが鍵。そこで何かが行き止まりになっている。
Sorry, this video is not available. ほどけてしまう的な感覚的な
上句はyoutubeの画面に表示される文言だろうか。見ようと思って意気込んでいた気持ちが萎んでゆく。「ー的な」「ー的な」の繰り返しが今の言葉遣いをよく表している。
川は川をただ運ぶのみその様をきみに頭をあずけて見ていた
初句・二句の発見とその表現がいいと思った。君の肩か膝に頭を預けているのだろう。言葉数は少なくとも、関係性に心が満たされている。
奪ってくれ ぼくの光や音や火が、身体があなたになってくれ
身体での愛を詠う。相手との一体感を願う。初句の入り方が印象的。光・音・火の言葉の選択も、抽象的だが、この歌では新鮮で効いていると思う。
遠くに近くにかすかに揺れるはるじおん いろんな顔をぼくに見せてよ
はるじおんの花が遠く近くに見える印象に恋人の様々な面を重ねている。相手の色々な面を知りたいという気持ちが花に託されて詠われている。自然にすっと出たように見えるが、かなり意識して作られている歌と思う。
ちょっとのことにいつもつまづく 水槽に光る魚群をきみは見ている
少しの齟齬が気になる。それも何度もあるとなると。きみはぼくに目を向けず、冷たい魚たちに視線を向けている。
噴水をかたむけながら吹いている風、なんどでもぼくはまちがう
たしかに噴水が風に揺れる場面は実景として多くの人が見ているものだ。この下句によって頼りなく風に揺れる噴水がくっきり目に浮かぶ。上句と下句のバランスが絶妙と思う。
ただの道 ただのあなたが振り返る 月明りいまかたむいていく
「ただの」で言いたいことは何だろう。何もかも平凡なものだったが、それが自分にとってかけがえのないものだったという自覚だろうか。
触れるとききみに生まれる紫陽花もふくめて抱いていたかったのに
ぼくが君に触れるとき、きみに紫陽花が生まれる・・・とても美しい把握だ。しかし、結句の「~たのに」でそれは過去のことであり、もう叶わないのだということが読者に知らされる。口語の助動詞がとても効果的に使われている。
みずうみのような眼でぼくを見てゆっくりと閉じられるみずうみ
「みずうみ」の表すものでずいぶんと印象が変わる歌。明るく澄んだ大きな湖か、曇り空の下の翳った小さな湖か。後者と取った。どこか物憂い一首。
四角いケースを背負った女の子のたぶん楽器だな、ぬけていく改札
見ている風景に思考が自然に混じる。「たぶん楽器だな、」が作者の声。読者は作者とともに駅の改札を抜けていく女の子を見ているような気持ちになる。
もう出ない蛍光ペンの筆先をざらざら押し付けながら会いたさは
文房具って使い切る前に失くしたり、使うのをやめてしまったり。その中でも蛍光ペンは比較的最後まで使うもの。あ、出ない、と思って紙に押し付けてみる。その時、会えない人への会いたさが募る。途切れてしまった鮮やかな色の記憶。
電柱がわりと斜めに伸びていることに気づいた みたいに好きだ
見慣れている電柱を新たな視線でふと見つめ直す。その時に感じるかすかな心の動き。繊細な気持ちを捉えている。
ほどほどの川が流れているほどの地元があなたにもあるでしょう?
川が流れているかどうか、って結構その土地の印象にとっては大きい。「ほどほどの川」の「ほどほど」はどのぐらいか。かなり小さい、でも存在感のある川だと思う。岸には樹木が茂っているような。
いくつになっても円周率を覚えてる いくつになっても きみがいなくても
円周率は無限に続く数字。その途中までを覚えている。途中までだけど、ずっとずっと心に残っている。これからもきっと忘れることはないのだ。
左右社 2020年7月 1800円+税