『玄牝(げんぴん)』高木佳子
第3歌集。震災後の混迷する世を詠う。震災後の福島に生きる現実を仮借無く描く。人間性の本質に迫る一冊と思う。震災後の社会、人と人との在り方を問いかける。読者が自分の立ち位置を問われる歌集だと思う。
生きながら生き永らふることを思ふ万年筆はインク充ちつつ
万年筆はインクが空になっても充填すればまた使える。しかし人の命はそうではない。今、生きているが、それは必ずしも生き永らえるという保証にはならない。生き永らえることができるか、生き永らえた自分はどのように生きているか。何かを書きながら考えている。初句「いきながら」二句「いきながら・ふる」の音韻で「ふる」に意識が向く。
たはやすく泥の足もて踏みてくる蟻のごときか侮蔑といふは
災害時は生きて生き延びるのが一番重要な事だが、災害後の少し落ち着いた頃に必ず浮上するのが金銭問題である。「木斛」一連はそうした金銭問題に関わる人間関係の変化を描いている。親しかったはずの人が急に侮蔑を投げかけて来る。まるで蟻が家の中に入りこむように、心の中に踏み込んで来るのだ。見たくなかった人間の面をも容赦無く描き出した一首。
硝子戸のむかうにをらむ草雲雀われの気づきしのちを鳴きをり
今まで気づかなかったのだが、ガラス戸の向こうに草雲雀がいるようだ。いる、と気づいたその後を鳴いていた。もちろん、作者が気づく前から鳴いていたし、だからこそ気づいたのだが、作者にとっては気づいて後のみ鳴いているのだ。意識することの面白さがよく出ている歌。
深々とおのれに溝のありしゆゑそを震はせてこほろぎは啼く
コオロギの身体に溝があり、それを震わせて鳴く、と詠う。コオロギのことを詠っているようで、作者や作者を含む人間を詠っているのだろう。溝は欠けたところ、あるいは傷。その深い欠損部分があるからこそ、それを震わせるように、人はなく、あるいは声を出すのだ。
触れゆかば崩るると思(も)ふ花びらの繊きつくりは心にも似る
端正な歌。触れれば崩れるように見える繊細な花は、人の心にも似ている。人の心も、不用意に触れれば崩れてしまうのだ。そうは言っても花は手に取りたくなるし、人とは接せずにはいられない。人と関わることの難しさを思いながら、花を眺めているのだろう。
土を掻き土を悼みてひと日づつこの地を生きむとする人がゐる
「連翹」一連から。震災後福島を去り、移住先で子を産もうとしている人と、福島に残り、福島の土と共に生きている人がいる。作者は後者の立場で詠う。去った人には去った人の論理があるとしつつも、誰かの何かの都合で汚された土地を悼む気持ちには、その論理を差し挟ませない怒りがある。一首一首に打たれるような思いを持って読んだ。
ひとたりの女が母にてある時間 語ることなくかなしきものを
父の逝去後の時間を、母と共有する作者。母は高齢であり、作者も若くない。母と子であった二人の女として、親子関係とはまた違う面を持って付き合っている。一人の女にとって母である時間は、生涯を覆い尽くすものではない、という事を実感とともに伝えてくれる。
をとこらは深手負ひたる石榴かな地のうへを割れあかく転がる
港湾で働く男たちを詠った一連「今日」は被災を利用して労働者を解雇しようとする雇用者側に対してのデモが題材だ。この歌集中最も動的な場面を描いており、強く惹かれた。明日食べる物にも困窮する労働者たちを石榴に喩える。割れた石榴が地面に転がるイメージが鮮烈だ。「あかく転がる」に血に塗れている印象がある。
ねえちやんは帰れ分がンね奴は帰れとぞ言はれつつわが併走す
同じく「今日」より。労働者のデモに併走する作者。事情を違える労働者たちには帰れと言われつつ共にいることをやめられない。本当には分からないかもしれない、けれども共有できる部分はある。だから併走せずにはいられないのだ。
復興に繁る樹下へと棄てられし無数の夫・父・兄そして弟
同じく「今日」より。復興や絆などの口当たりの良い言葉。そして「復興」という名の下に潤う人がいる陰で切り捨てられていく労働者たち。彼らは誰かの夫あるいは父、兄、弟である。決して他者ではない。そして今切り捨てられようとしている彼らだけでなく、もっと多くの人々が次に切り捨てられていくことも予感した歌だ。
砂子屋書房 2020年8月 3000円+税