大口玲子『自由』
第七歌集 2018年春から2020年秋までの408首を収める。社会に対する鋭い視点から編まれた骨太の作品が多い。社会詠を生活詠として連作で詠う技量はずば抜けている。キリスト者として自らを見つめる歌、息子との関係性を詠った歌にも強い感銘を受けた。確かな技量で一首一首と連作を構築する、間違い無く現代短歌のトップランナーの一人だ。
着信のたびに鋭く鳴く鳥の打ち消しがたく人去りゆけり
上句が序詞のようになっているが、全くの序詞という訳ではなく、意味性も充分に持っている。メールの着信音が鳥の鳴き声に設定されているのだろう。ある人が作中主体とその環境から去った。メールの着信のたびに鳥が鋭く鳴く声がする。全てのメールがその人からのものではないにしても、着信音が鳴るたびに、その人が去ったことを主体は再認識する。打ち消し難いほどはっきりとその人は自分から離れて行った、と。
水けむり浴びつつ立てり大滝にまぢかく声を濡らさぬ人と
連作「言葉に出さず」より。百日ぶりほど久しぶりに会った「きみ」と滝を見に行く。久しぶりであるが、改めて何も話すことは無いと思いつつ、「きみ」と滝を見ている作中主体。掲出歌は上句で大滝の水しぶきの激しさを描写する。しかし下句でそのように水けむりを上げる滝の近くにいても「声を濡らさぬ」と相手を表す。この比喩は「声を出さない」と「声に感情が滲まない」の二つの解釈があり得るだろう。連作を前から読んでいくと「声を出さない」が妥当と思えるが、相手の感情の動かなさも含んでいるように思えた。
(群衆は叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」)牢に居るイエスを訪ね十字架のイエスを殺す偽善者われは
連作「黒き桜」から。( )内は詞書。まさに集団心理に駆られて、イエスを殺し十字架につけろ、と叫ぶ群衆。作中主体は自分はそんな群衆の一人であり、十字架にかかって死ぬイエスを見殺しにしているのだ、と自覚する。主体がそれを最も深く自覚するのは、「牢に居るイエス」を訪ねる時である。「牢に居るイエス」とは、大阪拘置所にいる、死刑判決を受けた人である。主体は、キリスト教を通して、その人物の魂を救う手助けをしようとするが、その人物が殺したのがもし自分の子供だったら、という思いに何度も逡巡する。自分のやっていることは十字架のイエスを見殺しにしたことの代替行為ではないのか。主体は、人間の心理を掘り下げ、自分を「偽善者」と位置付ける。誠実さゆえの苦しみである。読者を深い心の淵に連れて行く連作だ。
その人が控訴を取り下げたるニュース聞きたり蛍見に行きし夜
同じ「黒き桜」で前掲出歌に続く歌。「その人」はいったん行なった控訴を取り下げた。控訴を取り下げるとは、罪を認めて引き受けることであり、死を以て自分の罪を償う覚悟をしたということである。「その人」の魂の救済のために大阪拘置所を訪ねた主体だが、彼が自分の罪をどのように引き受けるか迷い決断した時には、蛍を見に行っていた。蛍を見に行くのは平凡な楽しみであるが、主体はそこで、己の生死に疑問を持たない自分の行動を強く意識する。自分が蛍を見て楽しんでいた間も、「その人」は苦しみ続けていた。自分が彼を訪ねたことは何だったのだろう。主体の動揺が伝わる歌である。
見せることあらねど見せしめのごとき死を死ぬのか人は目隠しをされ
前二首に続く歌。死刑は誰も見ていないところで行われる。誰にも見せずに国という抽象的な存在が行うのだ。見せないけれど、言葉で言えば「見せしめ」である。人を殺せば殺される、気をつけよ。罪を犯す可能性を持つ、多くの人に対し、国の制度が警告する。しかし、国というのも即ち私たち自身である。警告するのも、されるのも、どちらも私たち自身なのだ。国がその民にする見せしめのような死。そのために人は目隠しをされ、刑を受ける。作中主体の脳裏に浮かんだ光景を読者も共有する。結句の具体的な描写が読者に共有を迫るのだ。
食用と観賞用を区切る石 鯉はそれぞれの生を泳げり
高千穂牧場を訪ねた折の一連。作中主体は宴会の席にいる。おそらく食事をした建物の庭に大きな池があるのだろう。そこを鯉が泳いでいる。池は石で二か所に区切られている。片方には食用の鯉が泳ぎ、もう片方には鑑賞用の鯉が泳いでいる。おそらく人間が見たら一目で分かるほどの外観の差なのだろう。しかし、見た目が違えど、鯉の命は同じである。鯉はそれぞれの生を生きている。食用と観賞用に命が区別されるのは、人間側の都合によるものなのだ。
かりゆしを着てその人は権力に負け続けたりしイエスを語る
辺野古埋め立てに抗議する抗議船「不屈」。その船長であり、牧師でもある金井創(はじめ)を詠った歌。沖縄の夏の服装として定着したかりゆしを着て、その人はイエスを語る。イエスは権力に負け続けた。その人もまた権力に負け続けている。しかし、屈することなく闘い続ける意志を語る。負けることをマイナスイメージで捉えていない。イエスの行いに通じるものとして肯定的に捉えているのだ。信仰を通して、作中主体とその人の意志が通じ合う。
不登校は悪くないといふ物言ひに悪意はなくて慰めもなし
連作「阿修羅」より。初出の時に雑誌で読んだ時は一般論だと思って読んでいた。それでも強い印象を受けた歌だった。この一連で不登校に触れた歌はこの一首だけである。不登校は悪くないと言う人の物言いに悪意は無い。むしろ善意だろう。しかし他人事として言っているので慰めにもならない。歌集を読み進めると、作者の息子自身が不登校なのだと分かる。そうであれば一層、悪意も慰めも無い、この言葉の残酷さが浸みる。その人は、励ましてはくれるが、痛みを分かち合ってくれているわけではない。言われた方は、ありがとうと答えるしか返事のしようが無いのだ。
リコーダーも持つて帰ると子は決めて「さびしい時に吹くから」と言ふ
学校に行かなくなった息子は、しばらく図書館登校をして読書だけしていたが、それもやめてしまう。その後、体育館シューズを取りに行くためだけに久々に息子は教室に入る。それに付き添う作中主体。掲出歌はその時の歌だ。体育館シューズ同様、教室に置いたままにしておいたリコーダーも持って帰ると子は決める。家でさびしい時に吹くというのが理由だ。学校へ行かなくなり、友達にも会わなくなった子の「さびしい時」はいつだろう。いつもさびしいのではないのか。作中主体の心情は詠われないが、子の持つ孤独を共有できない辛さが歌から強く伝わってくる。
献水は献花に先立つ 水のへに至りえざりし人びとのため
広島、長崎に落とされた原子爆弾。その時、人々は傷ついた身体のままに水を求め、水辺へ至ろうとした。そして多くの人々は一口の水を求め、それを得られないままに死んでいった。そのため慰霊の行事では献花より献水が先に行われる。当たり前だと言えば当たり前なのだが、言われて深く納得することでもある。水を飲めずに死んでいった人々を思いながら、鎮魂の席にいる主体。主体の心も何かを深く求めているのではないだろうか。
書肆侃侃房 2020年12月 2400円+税
私が短歌を始めた頃からはるか前を走る、目標の歌人です。