三枝浩樹歌集『黄昏(クレプスキュール)』
第七歌集 2009年から2015年までの作品を収める。前半は主題制作を意識した連作、後半は所属誌「沃野」に発表した日常詠である。前半はキリスト教の影響が濃い。物語的構成から現実を逆照射する。後半は甲斐での暮らしを基盤にした作品群だ。全編を通じて、信仰と甲斐の地への愛は分かちがたく描かれている。静謐で、気品のある佇まいの一冊で、静かなクラシック音楽が背後に流れているような印象を受けた。
為すことをなせと言もて行かしめし・・・ いかに哀しきこころなりしか
高橋たか子の挽歌の一連に続き、夫であった高橋和巳の思い出を綴った一連にある一首。イスカリオテのユダとイエスがテーマだ。ユダとイエスの関係性に作中主体と高橋和巳の関係性が何らかの関連を持つのだろう。イエスはユダに、行ってお前の為すべきことをせよ、と言ってユダを行かせる。ユダが自分を時の政権に売ると分かっていてしたことだ。これから自分を裏切る者に、それを許すということ。それはいかに哀しい心だったことだろう。誰の心の中にも棲むユダに、そしてそれを許すイエスに、作中主体は思いを馳せる。
こころの襤褸(らんる)繕うための閑ありてかたえのひとと二人過ごせる
生きているとなりふり構わず必死にならなければならないことも多い。心がボロボロになってしまっても、進み続けなければならないことも。けれども、そうした走り続ける日々の中で、ふと立ち止まり、自分の心の荒れを見直す時間もあるのだ。その時、少しの余裕を持ってお茶などを飲み、自分の最も傍にいる人としばし安らぎの時間を過ごすことだろう。全く何でも無い日常の一コマと言ってしまえばそれまでだが、そんな時間が無いと、心は本当にぼろきれのようになってしまう。「こころ」「かたえ」「ひと」というやさしいひらがな書きが、「襤褸」「繕う」「閑」という対称的に堅い漢字表記をくるみ込み、一首からやさしい雰囲気が伝わってくる。
踏まざれば絶たるるいのち・・・ 断崖(きりぎし)へふたたび人ら連れ行かれたり
キリシタン迫害により棄教したポルトガル人教父と殉死した中浦ジュリアンを描いた一連「長崎・一六三三年」より。初句二句は踏み絵とそれを踏まなければ殺されることを言う。三句以下は暗黒の穴に逆さに吊るされる「穴吊りの刑」に処される人々を描く。ふたたび、であるから、以前にも同じ刑にあってそれでも棄教しなかったことを言っているのだろう。一連にはこの刑の過酷さが記され、また作中主体自身がその刑にあっているかのような描写が続く。その物語の幕開けを予測させるような最初の一首である。
逆さとはあってはならぬ体位にて いっこくはひと日(ひ)ひと生(よ)のごとし
日本史の授業で、キリシタン迫害、踏み絵、等と淡々と習うことが多いであろう、キリスト教受容史。ほとんどの人が、歴史用語として覚えているだけなのではないか。しかしこの一連では、その迫害の凄まじさと刑の酷さ、そしてそれを受けてなお信仰を曲げなかった人の、心の強さを実感を持って描き出す。果たして、逆さ吊りの苦しみに人はどれほど耐えられるものだろうか。一瞬が一日、一生のようという喩えは決して大袈裟ではないだろう。作中主体はまるで自分が逆さ吊りにされて、信仰を試されているかのように苦しみながら一連を編む。読者も主体の信仰の深さを追体験するような一連だ。
駈込み訴え 満身創痍の憎しみと哀しみの波ユダをひたせり
日本では太宰治を始めとして、ユダに興味を持つ人は少なくないと思われる。それは聖書を信仰の書としてではなく、一種の小説のように読んでしまうことから来るのだろう。しかしそんなキリスト教徒で無い者の見方は、信仰厚い人にとってはどう感じられるのだろう。そんな思いを持って掲出歌を読んだ。この歌は、太宰治がユダを描いた小説を、初句八音に置いて際立たせる。続く二句からも嫉妬に駆られイエスを売るユダを人間として描こうという、作中主体の目が感じられる。信仰の書の中にいる、心の弱い人間を見つめようとする目を「哀しみ」という語に感じる。
ぴーんと割れた音を見ていた そのふるえ外に届かず誰も気づかず
具体的な一連「庄内柿」にある抽象的な一首。少しずつ友達が他界していき知り合いが減っていくこの世を、木守柿を五つほど残した柿の木を見ながら思う。その時、「ぴーん」と割れた音が作中主体に見えた。音を見ていたという表現が独特だ。おそらく、主体の内部でその音が響いたのだろう。その音の震えは外に漏れず、誰にも気づかれていない。ただ主体のみが何かが割れる感覚を感じ取ったのだ。それは何だろう。何か分からないままに、読者である私自身の心が何かを感知する瞬間と重ね合わせて読んだ。
軒下に立てかけてある竹箒 生前死後という時間あり
「山廬」の一連より。俳人飯田蛇笏・龍太親子の住居であった、山梨県笛吹市の山廬を訪れた時の一連。ホームページで見ると、江戸時代に建築された建物で、広々とした敷地の平屋建てだ。その軒下に立てかけてある竹箒を詠む。竹箒で掃除するということは一定以上の広さの庭があることが前提だ。現代の都会のマンション暮らしなどからは想像もつかない悠々たる暮らしが思われる。そこで作中主体は「生前死後という時間」に思いを馳せる。かつては蛇笏や龍太やその家族が庭を掃いていたこともあったのかも知れない。今、竹箒は黙って端正に立っている。俳人たちの生前の時間と同様に、死後の時間の中に立っている。物に託して長い時間を詠った歌だ。
静かなる手の中の火や 敬いて心に置きて会わざりし人
前首に続く一首。初句二句は飯田親子に対する気持ちだろう。心の中に暖めてきた思いを、手の中の火に喩える。そんな敬意を心に置きながら、結局会うことは無かった。蛇笏の没年は1962年、龍太の没年は2007年だから、特に龍太には同じ山梨県人の文学者として会おうと思えば会えたのではないか。しかし心に敬意を持ちながら、会うことは無かった。そういう文学者同士、もっと言えば芸術家同士の敬意の持ち方はよく分かる。今、尊敬する俳人の住居であった建物に来て、主体は自分の心の来し方をしみじみ振り返っているのだ。
埋もれゆく庭いちめんのおうとつのやわらぐまでに白くなりたり
「雪」の一連から。作中主体は、土地に深く根差した思いを持っている。その土地にはその土地の人がいて心があること。風土は人の心に添い、人の心は風土に添う。例えば、主体の住む地方では雪はそれほどありふれたものではないようだ。ふと現れて、いつの間にか庭の凹凸を隠すほどに降る雪。「いちめんの」「おうとつの」の、「の」による繋ぎが柔らかくて一首の雰囲気に合う。特に「いちめんの」の「の」はその上の語にも下の語にもかかる、散文にしがたい「の」だ。また、おうとつが「やわらぐ」という言葉の選びも淡く降る雪に相応しいと思った。
退きてまたしりぞきて立て直すそういうときが誰にもあらん
心が励まされる一首。風光の良い所にある住居を手放す友に、心を寄り添わせた歌。今は退く時かも知れない。退いて、退いて、それからまた立て直す。誰にでも「そういうとき」があるだろう。どんな場所にもどんな人にも当てはまるような箴言的な一首。これが富士が美しく見え、庭に樫の木の聳える住居に立って言うことだから説得力があるのだ。言葉だけで作った歌には無い重みが、一首の背後に感じられる。
現代短歌社 2020年7月 2600円+税