中森舞『Eclectic』
第一歌集448首 リリカル、ラディカル、中森舞。彼女のスパークする世界を手探りする。「Eclectic」は「取捨選択する、折衷的な」の意。何を選び、何と折衷したのか。女性の話し言葉の特徴と思われる「の」「ね」「よ」「わ」の多出。都会の中にいながらサバンナの動物や深海の魚に親和する感性。また、野田和浩のポップでサイケな装幀は、見事に内容と合っている。
ひとりだけ傘を差してるあの人に降ってないのと言う前に雨
「あの人」と作中主体は近い関係なのだろう。雨、降ってないよ、なぜ傘差してるの?と言おうとしたら、その前に雨が降り出した。「あの人」だけが気づいている雨に、主体もやっと気づいたのかもしれない。「あの人」は何かを察していたのだろう。その特別感が際立つ一首。
髪の毛がプチンと切れて絡まってボタンに残る関係にして
相手の服に顔を埋めていた。ボタンに自分の髪が絡まっている。顔を上げて身体を離そうとした時に髪の毛がプチンと切れてしまった。自分の髪の一部が相手のボタンに絡まったまま残っている。そんな風に別れたい。離れても自分の一部が相手に残るような関係でいたいのだ。「て」の繰り返しが物事の途中であるような感覚を高める。
せいせいとしたわ きみからぶん捕ったビニール傘が吹き飛ばされて
主体は強い。「きみ」からビニール傘を分捕る。私が濡れそうなのに、差しかけてくれないって何?あなたを守っている、その傘を寄こしなさいよ。でも強風は主体の心と手よりもっと強く、「きみ」から奪った傘を吹き飛ばしてしまう。相手との関係も、お互いの縺れた感情も、傘ごとどこかへ連れて行ってしまった。せいせいしたわ、とつぶやく主体。それは強がり。本当は失った傘と「きみ」に対して心が軋むのだ。
透き通るわたしと目があう地下鉄の闇の向こうはマンタのゆらぎ
地下鉄の窓越しに闇を見ている。窓には主体自身が透き通って映っている。闇の中に透き通って浮かぶ「わたし」と、こちら側の「わたし」の目が合う。誰にでもある体験だろう。主体はさらに闇が揺らいでいるような感覚を持つ。それは夏の海を泳ぐマンタ。都会の底の闇を大きくひれを振ってゆったり飛ぶようにマンタが横切って行く。うるさい地下鉄の内側にいながら、静かな水族館のガラス越しに泳ぐマンタを見ているような幻想を抱いているのだ。
なぐさめに巻きつける腕 無意識に互いにすり寄るキリンにも似て
愛し合っているのではなく、分かり合っているのでもない。ただ苦しむ相手をなぐさめるためだけにその身体に腕を巻き付ける。ちょうど何も思わず無意識にお互いにすり寄るキリンのように。寂しいから不安だから寄っていくのだ。キリンと違うのは分かってやっているというだけ。犬や猫と違って大きなキリンだからお互いの孤独感が増幅する。
たぶんすぐあなたは誰かと手を繋ぎその手を誰とも比べないひと
私から去った「あなた」は多分すぐに誰かと手を繋ぐだろう。それが必然のように。そして繋いだ手を誰とも比べない。以前に私と手を繋いでいたことと比べることもない。むしろ「その手」の前に、私と手を繋いでいたことは、「あなた」の中で大切なこととしては数えられていないのだ。ひらがな主体の一首の中で「繋」という字画の多い文字が楔のような働きをしている。「繋」という字が砂時計の括れた部分のように見えてくる。
私だけあきらめた実があちこちで甘く熟して食べ頃になる
「私」は何かを諦めていた。おそらく勝手に。誰かに諦めろと言われたわけでもない。「私」自身の意思で、そうしかないのだと解釈して勝手に諦めていたのだ。それらが花を咲かせ、実をみのらせる。甘く熟して食べ頃になるが、諦めてしまった「私」には食べることができない。努力して手に入れた人を、一人、皮相な目で見つめるだけ。実の甘く丸い様子が目に浮かぶ。ほんのりといい香りさえするようだ。そこに「私」の存在が疎外感を持って立ち尽くす。
右目からあなたが滲み世界一小さな海の満ち引きを知る
主体の目から涙が滲み出す。世界一小さな海だ。「右目から」という把握にリアリティがある。泣く時は両目から涙がこぼれるのだが、流れ始める時に、主体はまず右目に涙を感じたのだ。涙があふれるが、また止まる。それを潮の満ち引きと表現した。本当に辛い場面なのだが、そういう時、人は意外に冷静なものだ。今、右目から涙が出ているという冷静な自己観察。美的な表現の裏のむき出しの現実。
向かい合い互いに左右非対称確認しあうためのくちづけ
この作者の歌は、漢字の使い方とその位置に特徴があるように思う。明らかに硬い漢語を文中に使い、そこに目を引き付ける。この一首では、「左右非対称/確認」の部分が硬い。人間の体は左右非対称。心臓は左胸にしか無い、等々。顔も対称に見えて非対称。それを確認するかのように口づけを交わす。下句はほとんどひらがな。知的な把握が、肉体性を伴って、一気に柔らかく詠い上げられる。
くるおしいほどの焦燥には雨をトムソンガゼルの群れと東へ
「くるおしい」という身体性と切実さを持った語と、「焦燥」という硬い語が出会う。そして焦燥を冷ますために「雨を」、と求める主体。主体はサバンナのガゼルの群れと共に、日の昇る東へ向かう。砂漠ではないが、草の乏しいサバンナ。そこに群れで生きるしなやかなガゼルが、主体の感性と生き方を象徴する。
青磁社 2020年11月 2200円+税