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目黒哲朗『生きる力』(本阿弥書店)

 第三歌集。2013年の前歌集以降の338首を収める。ほぼ10年間の歌を収録している。長野という土地と二人子の子育てを軸に日常生活を描く。日常生活の中に描かれる、知人の犯罪と死、洪水被害、豚・猪のウイルス感染などの社会的事件が印象的だ。また歌集後半にはコロナ禍の日々が描かれる。歌集最後近くに、大学に進学した息子が家を離れる一連があり、親業の一段落が描かれる。共感を持って読んだ。

言ふことをきかぬ職場のコピー機をやがて撫で始むる人のゐる(P28)
 機械なのだが、まるで駄々をこねる子供をあやすように撫で始めた人。おそらく、「もう一枚お願い」「ちゃんとコピーして」などと声もかけているのだろう。それを見ている主体も同じような気持ちなのだ。昔、映りの悪いテレビを叩いて直したりしたものだが、機械と人間の距離の近さは案外今も変わらない。

助手席と運転席はお互ひが前を向くからやつと話せる(P36)
 お互い面と向かって、顔を見て目を見ては、なかなか話しづらいこともある。特に重い内容の時は、切り出すタイミングも掴めなかったりする。その点、お互いが隣り合って前を向いている助手席と運転席なら話しやすい。車の中という、ほどよい密室感も話をするのに適している。

スキー板を見やう見真似で作りしは高田仲町の大工らなりし(P42)
 連作「妙高戸隠連山国立公園に遊ぶ」より。日本で初めて本格的なスキー指導を行ったレルヒ少佐を詠った歌の二首後にある歌。明治末期に見様見真似でスキー板を作った新潟の大工たち。きちんとした製造技術も知らず、長年の経験と技術者の勘のようなものを頼りに作ったのだろう。おそらくそんな風に西欧の多くの技術・文明は明治日本に取り込まれた。歴史をふり返らせる一首。

見えないといふことは全方向があるといふこときみを探せば(P59)
 一首全体を喩として読んだ。見えないということは、探しているものが自分にとっての全方向に存在する可能性があるということだ。君を探すのに全方向を意識しなければならない。見えない不安を抱えながら、きみを探している。そんな場面と取った。

さくら流るるよこの川べりに来て記憶の中の誰にでも会ふ(P73)
 「さくら流/るるよ・この川/べりに来て/記憶の中の/誰にでも会ふ」と区切って読んだ。二句の句割れ句跨りが、どこか心に鬱屈があるような印象だ。川を桜の花びらが流れて行く。その流れを見ていると、記憶の中の誰もが鮮明に蘇って来て、彼らの誰とでも会うことができる。桜には記憶の回想がよく似合う。

御守りを揺らして歩む子ども また、子どもの日々に揺るる御守り(P83)
 小学生のランドセルについているお守りを想像した。ほとんどは親がつけるのだと思うが。親の愛のしるしとしてのお守りを揺らして歩いている子どもたち。また、子どもを見守ってそのかばんで揺れているお守り。成長してお守りを持たなくなった子どもが、昔自分が提げていたお守りを再び見た時、何を思うのだろうか。

公衆電話の内部に硬貨落つる音 諦むるにも巧拙のありて(P93)
 下句に惹かれた。何かを諦めるのにも上手い下手がある。さくっとあっさり諦められる人もいれば、いつまでもぐずぐずと引き摺る人もいる。おそらく諦めるのが上手い人を見ながらの、諦め下手の主体なのだと思う。上句は、今やほとんど見なくなった公衆電話だが、使う人が少なく、内部がカラに近いと、硬貨が落ちる音がよく聞こえる。その乾いた音の質感が、下句と響き合う。

「気をつけて」とはさよならの意味なりき砂糖の粒のやうに光りて(P102)
 別れ際に言う挨拶には、また会う前提のものと、もう会わない前提のものがある。同じ言葉でも言う人言う場面によって変わる場合もある。おそらく相手から「気をつけて」と言われたのだろう。それはもう会わない、を含んだ別れの言葉だった。そのことに後で気づく。言われた言葉が記憶の中で砂糖の粒のように光っている。

箸箱を泥の中より拾ひ上ぐ泥の重さの箸箱ひらく(P110)
 2019年10月、台風19号の影響で千曲川の堤防が決壊し、作者の住む地域が洪水の被害にあった。水が引いてから、泥の中より家財道具を取り出すことを描いた連作が「穂保(ほやす)」であり、歌集の中盤の一つの大きな山となっている。泥にまみれた家財道具にそれまで生きてきた日々の思い出が貼りついている。それを処分していく辛さ。掲出歌は「泥の重さの箸箱」という表現にリアリティがある。箸が入っているだけならカラカラと軽い箸箱が、泥が詰まってみっしりと重い。その手応えと、箸箱に泥という有り得ないはずの状況が、目に浮かぶように描かれている。

いくつもの暗証キーを管理して入れるかしら私のみぎは(P169)
 ネット社会の一面を描いた一首。特にコロナ禍に於て、対面で物事を処理できない分、ネットの利用が大きく進んだ。今まで以上に多くの暗証キーを管理しなければならない。久しぶりのサイトではログインできるかどうか不安になることもある。マイページと言えばそのままだが、結句の言い方が詩になっている。自分の汀なのに、不安にさせられるなんて、という気持ちに共感した。

本阿弥書店 2024.2. 定価:2970円(本体2700円)

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