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『老人ホームで死ぬほどモテたい』上坂あゆ美(書肆侃侃房)

第一歌集 
 子供にとって家庭環境は自分ではどうすることもできない。作中主体は親や姉など、家族との関りをただ受けとめるしかなく、それはそれとして淡々と歌に詠む。傷ついていてもその傷に浸ることなく、乾いた口調で詠う。それは必ずしも傷が浅いことを意味しない。自己美化も自分の環境を美化することも無く、存在するものを見たまま感じたままに詠う。身も蓋も無く歌にされるむき出しの生。短歌的感傷を持たない感性がつかんだ現代がここにある。 

ばあちゃんの骨のつまみ方燃やし方 YouTuberに教えてもらう
 祖母の葬儀の場面。骨となった祖母をどう扱ったらよいのか、教えてくれる人がいない。親が教えてくれるものだろうと思うが、親も知らないのだ。平均寿命が延び、人の死に目に会う機会が減っていることもあるだろう。そこで作中主体はネットで検索して、YouTuberの動画でそれを学ぶ。おそらく親たちにも教えるのだ。動画を見ながら骨を拾っているのかもしれない。寒々とした光景に見えるが、これが普通という環境なら、これが普通なのだ。

ロシア産鮭とアメリカ産イクラでも丼さえあれば親子になれる
 そうであれば、自分たちも親子になれるはずだ、というのが言外にあるのだろう。別々の国で獲れた鮭とイクラが丼という容器で親子になるように、繋がりの無い自分達も、家という容器の中では親子になれるはずだ。見た目が親子であれば、理屈上親子であれば、それでいい。本物の関係など求めてはいない。そんな気持ちが行間に見える。

ああ今日は喧嘩がある日だ お茶碗でなるたけ顔を隠した夕餉
 親同士がぴりぴりしている。一触即発というか。今日は喧嘩がある日だ。今までにも何回もあった気配なのだろう。余計な事を言ったりしたりしたら、自分にもとばっちりが来る。「お前が○○だから父さんは」とか「お前のせいで母さんは」と絡まれる危険性を感じるのだ。だから夕食の間中、茶碗で出来るだけ顔を隠す。親たちもお腹が空いているので取り合えずご飯は食べる。喧嘩はご飯が終わった後、起こるのだろう。親の機嫌に振り回される、無力な子供であった自分を振り返る視点で詠まれている。

ジャグジーの押し出すちからと母さんの雑な「がんばれ」つよさは同じ
 スーパー銭湯か何かでジャグジーに身体を押されている。ジャグジーから出る湯は、強い力で細かいことには関係無くぐいぐい押して来る。この感じ、何かに似ている。そう思った時、母の「がんばれ」という雑な励ましを思い出す。何をどうがんばるのか、何が問題でどうなればいいのか。そんなことにはお構いなし、本人に丸投げで、とにかく「がんばれ」。そんな母の雑さが嫌なわけではないんだけれど、押されてまあまあがんばろうとは思うんだけど、母さん、あんまり私のことよく見てないよね。 

人びとの生きたい気持ちを照らすためスーパー玉出は夜にかがやく
 大阪に実際に「スーパー玉出」という名の激安のチェーン店がある。検索すると、激安、ド派手、24時間営業、年中無休と特徴が挙げられている。その店を指していてもいなくても構わない。どこか安っぽい雰囲気の名前や歌一首から、何となくその特徴に近いものが頭に浮かんで来る。夜遅くでないと買い物に行けない、行く気にならない人たち。なんとか(コンビニでなく)スーパーで食材や日用品を少しでも安く買って、毎日を生き延びたい。そんな人たちの「生きたい気持ち」を照らし、支えるためにその店はネオンをつけて夜も輝いている。
 
何かへの復讐として一粒のマカロン買ったりしていて可笑しい
 マカロンは一粒でも高価だ。普通の袋菓子なら一袋ぐらい買える値段で一個しか買えない。そんなマカロンを買う。何かへの復讐のように。ほら、こんな高いお菓子買ったよ、ざまあみろ。でも一体何に対して自分はそう思っているのだろう。そんな自分のささくれだった気持ちが可笑しい。自分の気持ちを何かへの復讐と分析し、またそのマカロンを買う自分を外側から見て可笑しいと笑う。醒めた視線が読者の心に刺さってくる一首だ。

じゅげむじゅげむごこうのすりきれ生きることまだ諦めてなくてウケるね
 落語の「寿限無」は子の長命を願う親の気持ちが仇になって、子が早逝してしまう話だ。よく考えたら親にとっても子にとっても残酷な話なのだが、それを落語として江戸の庶民は笑ってきた。作中主体も、親が自分のためを思ってしてくれた何かが仇になって迷惑していることがあるのだろう。じゅげむじゅげむと唱えながら、自分は生きることをまだ諦めない。そんな諦めの悪い自分をもう一人の自分が笑っている。嘲りの言葉である「ウケるね」を自分で自分にかけて確認しているのだ。

味は同じ氷シロップに色を付けるみたいな仕事がこの世にはある
 見た目でごまかされてしまうけれども、イチゴ味もメロン味もレモン味も、何ならブルーハワイも全部同じ味。ただ、色だけが違う。そうやって見た目をごまかすような仕事がこの世にはある、という認識。おそらく主体自身がそうした仕事に就いた経験があるのだろう。それを知らない人に伝えている。ごまかされている人に向かって、親切心でも無く、ただあるんだよ、と伝えているのだ。

懸命に生きてる 丁寧じゃないけど払っているよ国民年金
 国民年金も国民保険もどんな計算式になっているのか、収入に比べて掛け金がものすごく高い印象がある。この年金を受け取る頃まで、この制度はあるんだろうか。自分は掛けるだけ掛けて、制度は破綻するんじゃないか。あるいは年金を受け取る年齢まで生きられるのか。そんな不安を打ち消すように、懸命に働いて、懸命に国民年金を払う。丁寧な暮らしはできないけど、雑に生きるしかないけど、それしか生きられない。まるで誰かを安心させる便りのようだ。国民年金払ってるから大丈夫、まだ社会の中にいます、と言うように。

何もしないひとが帰宅部となるように生きてきたのでわたしになった
 中学高校時代、何の部活動にも参加してこなかった。部活動をしている人はそこが一つの居場所となるだろう。学校生活における名刺のようなもの。けれども部活動の数は限られており、必ず興味を持てる部があるとは限らない。あるいはどの部であっても何かに取り組むのが面倒だ、先輩後輩同期の人間関係を持ちたくない、など色々な理由で、また理由は特に無く、何もしない。授業が終わったら帰るだけ。そのように生きてきたので今の私があり、今の私になった。何かにアツくなるのではなく、ずっと平熱で生きてきた。そこには自尊も自虐も無い。これが自分なのだ。

書肆侃侃房  2022.2. 1700円+税

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