米川千嘉子歌集『牡丹の伯母』(ぼうたんのをば)
第九歌集 2015年~2018年の440首を収める。孤独感を詠った歌に人を惹きつける力がある。徐々に重ねていく年齢とともに、変わる家族の形を詠う。社会詠も多く詠われている。亡くなった人を悼む歌が多くなってくる年齢でもある。自分は女である、という自覚が強い歌に個性を感じる。それを社会詠の中にどう反映させていくか。
蝉声の傘あつらかにつづく道この世は死者をふくみてをれば
降り注ぐ蝉の声を傘に喩える、と読んだ。その傘が厚らかに続く道。重いぐらい蝉の声が降り注いでくる道。蝉の声が物質化して空気の中に一つの層を作っているようだ。その厚みの中に死者がいる。この世の生きている人々の間に死者は確かに存在しているのだ。死者を含んでのこの世に、4私たちは生きている。
口を開け喉まで見ゆるがらんどう乾かぬ家並(やな)み車窓に続く
東日本豪雨による鬼怒川氾濫を詠う。氾濫から二か月後、作者は復旧した常総線に乗って車窓から被害の大きかった地域を見ている。床下・床上浸水した家々は窓を開け玄関を開け、家の中を乾かそうとしている。それらの家を初句二句のように人体に喩える。家の中が元通り乾くことなど無い。一度水に浸かった家財は使えない。水が引いて乾いた後も、変質し異臭がするままだ。傷ついた人体の喩が経験しなかった作者にも読者にも響く。
泥海となりし刈田に鷺の来て蝶のごと群れなにか漁れる
上の一首と同じ一連の歌。自然の恐ろしさ、不気味さを詠う。災害によって、人間は年来の営みを阻害され、刈田は泥海となったままだ。しかしそこに何か鷺の餌になるものがいるのだろう。普段の風景として、田んぼの中に一羽二羽とたたずむ鷺は牧歌的だが、災害の際、群れ飛んで何かを漁る姿は、自然界の生物の生きることへの貪欲さを目の当たりにさせられ恐ろしい。あさましいという感がある。「蝶のごと群れ」が一読慣用句的に思えるが、少し遠目に白い鷺が群れている様を描いていて的確だ。
さびしさは見てゐるほかなしまばたきを繰り返すやうなそのツイートも
ツイッターに寂しさを込めたツイートを繰り返す人。「まばたきを繰り返すやうな」という比喩から、次から次へと短いツイートを大量に送り続ける様子が思われる。その寂しさ、孤独を作者は見ている他は無い。その言葉を受け取ることはできても寂しさを共有することはできないのだ。
ひとは誰かに出会はぬままに生きてゐる誰かに出会つたよりあかあかと
上句に強く感銘を受けた。誰かに出会って、心を開き、時間を共有する。それは人が生きる喜びではあるけれど、素朴な感慨だと思う。人が社会を作り始めた頃からずっとある関係だ。しかし現代社会では孤独が加速している。誰とも出会えない。出会っていてもそれは仮初めのことで心を開くには至らない。そんなひりひりした孤独感、自分の脳と感情をあかあかと燃え上がらせ照らし出すような孤独感に突き動かされて、現代人は生きているのではないか。一首上に挙げた歌の次の歌だが、独立して味わうこともできる。
「いつまでひとりで」とつぶやいたのは母のこゑわたくしのこゑ水仙のこゑ
父の死後、一人で暮らしている母。終わりの無い一人暮らし。上に挙げたような、誰かに出会えるはずなのに出会えない、そんな孤独と違って、もう出会い、関係を固め、その相手がこの世を去った孤独だ。子供がいても孫がいても彼らには生活があり、自分の孤独を癒してくれることはないことも知っている。それは早晩、「わたくし」つまり作者自身の声となるだろう。部屋に飾られた水仙の香気がこだまのように声を反復する。八・八・五・七・七と読んだ。九・七・五・七・七という読みも可能だ。いずれにしても初句が内容、リズム共に重い。
百歳の人よ祈りはないと言ひただ黄の紙を笹に掛けたり
施設での七夕だろうか。皆が将来の幸せを願って色紙に願いごとを書き笹に掛ける中、百歳の人が祈りは無い、と言う。その人の生きる現在は、若い頃見た未来であり、終わりの無い未来なのだ。何も書いていない黄色い紙をそれでも笹に掛ける。簡素に生きる姿。一首上に挙げた歌の、作者の母の孤独の最終形とも言える姿だ。
問ふたびにかならずしづかに返事して息子はわれの感傷を生きず
母親の問いは子供には時に鬱陶しいものだ。思春期には荒れて返事をしなかったり、反抗的な口調ですり替えた返事を返してくることもあっただろう。しかしもう成人し働いている息子は母親の心配や感傷に乗ることは無い。思えば反抗期は、親と子の感情が互いに向かい合って、ぶつかり合っているからこそ成立したのだろう。ただ静かに返事をする息子に、母である作者は、子育てを終えた物足りなさ、虚しさを感じているのだ。
ストーブでみかんを焼いて食べたころ家族は変はるものと知らざり
ストーブ、みかん、みかんを焼いて食べる、いずれも昭和中期頃の懐かしい語彙だ。おやつと言えばみかんで、テレビを見ながらこたつでみかん。爪や舌が黄色くなるまで食べて、時々ストーブの上に置いて焼いて食べたりする。父母がいて兄弟姉妹がいて時に祖父母がいて。そのまま永遠に時が続くように思えていた子供時代。それが幸せだとも何とも思わなかった普通の日々が、数十年後の現在にふと思い出される。変わってしまった家族の形を思うごとに。
よろこびよりつねに悲しみ多き世の真実はうたの巧拙の外
この歌集で最も強く同感した歌。世の中は常に喜びより悲しみの方が多い。短歌はそれらを詠っていくものだ。巧い歌を詠う人もいれば拙い歌を詠う人もいる。一人の作者の中でも歌の巧拙はあるだろう。しかし、世の真実は歌の巧拙の中に存在するのでは無い。歌の巧拙を越えたところに人間としての真実はある。たとえその真実が明らかにならず、歌の巧拙のみが問われ続けるのだとしても。
砂子屋書房 2018年9月 3000円+税