『かざぐるま』田口綾子
第一歌集 2008年に「冬の火」で短歌研究新人賞を受賞した作者。歌集前半の相聞歌に惹かれる歌が多い。
身のうちに魚(うを)を棲まはせええ、ええ、と頷くたびにゆらしてをりぬ
自分の身体の内側に魚がいて、自分がええ、ええと頷くたびにその魚を揺らしているという感覚を詠う。おそらく同意でも何でもないけれど頷いているのだろう。反対というわけでもない。体内の魚は頷きに添って水のように揺れる。
あをじろきことばしづめてふる雨に恋はるることなき腕をのばせり
雨の中に青白い言葉が沈んでいる。言わなかった、言われなかった言葉だろう。その雨に腕を伸ばす。相手から求められなかった腕を伸ばし、雨の中に沈んだ言葉に触れようとしてるのだ。
(からだ中の波をしづめて)片耳に頭蓋ふれあふ音を聞きたり
相手の頭と自分の頭が触れ合う。その時少し自分の頭の角度を傾けているので、片耳にだけ頭骨の触れる微かな音が聞えるのだ。身体の力を抜き、心を平静にしているところを、身体中の波を鎮めて、と言ったところが上手い。( )に入れたのも効果的。
音量を落とせる後もiPodが教ふる人語と鳥語のちがひ
音楽を聞いているiPodの音量を落とす。小さい音で聞いても人の声は鳥の声とは明らかに違う。もしかしたらイヤホンの外から鳥の声も聞こえているのかも知れない。鳥の声の聞こえる林、あるいは街路樹沿いを歩いているのだろうか。「人語」「鳥語」という語の選択がいい。
花々が炎にあらばだれひとり逃げえず焼き尽くさるるAEON(イオン)よ
日本中にあるイオンモールの一つに作者はいるのだろう。そのイオンモールに飾られている、あるいは売られている大量の花々。それが炎であれば大火となって誰も逃げられず焼き尽くされると想像する。消費社会の象徴のようなイオンと原始的な火の取り合わせ。
カフェオレには砂糖を少し入れて飲む秋にポケットだらけのからだ
カフェオレはミルクが入っているので元々あまり苦くない。だから砂糖も少量でいい。それを飲む秋、までは普通なのだが、「ポケットだらけのからだ」に驚く。ポケットは服に付くものだが、身体に直接ポケットがあり、それもからだが「ポケットだらけ」だというのだ。どこかそのポケットも何も入っていない、からっぽな印象を受けた。
会ふことと共に暮らしてゆくことのあひだに積もることもなき雪
会う事と、共に暮らす事は違う。そして、その間、つまり違いに雪が積もることもない、と詠う。間には空洞があり、雪すら積もらない。降ってはすぐに溶けて消えてしまうのだ。その「あひだ」は今後も埋まらないように作者には感じられているのではないか。
窓硝子に黙せる君は透けてゐて襟のあたりに人が曲がりぬ
窓ガラスに映っている君。その像は透けている。そしてその透けた像を通して窓の向こうが見える。君の襟の辺りでちょうど窓の向こうの人が道を曲がった。窓の向こうの風景が見えるのに、君の心が見えないことがもどかしい。
きさらぎは短く終はり水仙のうつむき深く立つ日々をゆく
2月は逃げる、と言われるようにあっと言う間に終わってしまう。1月2月に咲くイメージの強い水仙だが、2月が終わっても咲いている。まだ俯いたままで、花の終わりではないようだ。そんな水仙の立っている日々を作者は生きていく。水仙を見ながらどこかへ歩いて行くのだ。
あのひとの思想のようなさびしさで月の光がティンパニに降る
あのひと、という少し遠い存在の人の思想は、寂しい思想なのだ。その寂しさに似た月の光が降って来る。ティンパニに降れば、ティンパニが月の光に打たれて鳴り出しそうだ。にぎやかな楽器が少しトーンを落として音色を奏でる様子を想像した。美しい歌。
短歌研究社 2018年6月 2000円+税