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『空白』江戸雪

第七歌集 この作者の持っている語彙の透明さ、感情を率直に述べるスタイルは多くの歌人に影響を与えていると思う。その文体がこの歌集で、円熟期を迎えていると思う。しかし、ふと全く違う方向に行きそうな面白さもある。

薔薇園に日脚するどくさしていて負けたふりする男ゆるさじ

 負けたふりをする男は結局相手の女を馬鹿にしているのだ。わかったわかった、俺が悪かった、などの言葉は聞きたくない。腹を立てていた内容よりその負けたふりがもっと嫌なのかも知れない。薔薇園はおそらく満開。日脚がするどい、という表現から夕刻だろうか。

ユキヤナギ権力のようだ盛りあがり輝きたがり陽をはね返す

 「権力のようだ」という一語があるだけで歌が全然違ってしまう。これが無ければ、日を浴びているユキヤナギの可愛らしい白い花を詠った歌なのだが。「輝きたがり」で、ユキヤナギにどこか不遜な意思があるように思えてしまう。

にわたずみにつと水の輪は現れて死もこのように人にひろがる

 「にわたずみ」は江戸短歌に頻出するキーワードだ。葛原妙子の歌のように、異界への入り口なのだろう。そこに「つと」水の輪が現れる。目に見えない小さな何かが落ちたのか。それがひろがるように死が人々にひろがっていく。おそらく誰も死の連鎖だとは気づかないまま。

存在を海にうかべるほかはなく船はまぶしく窓辺を揺らす

 大きな客船だろうか。海に浮かぶしかない。陸に上がればそのまぶしさは異様で無様なものに変わるだろう。その存在が海に浮かぶ他は無い、という発想はなかなか思いつかないものだろう。海に在る限り、船は美しくまぶしく、窓に光を浴びているのだ。

アカシアの花垂れてくるさわりたいさわりたくないたぶん死だから

 ニセアカシアの白い、房状の花を思い浮かべた。アカシアの黄色い、ポンポンとした形の花ならかなり歌の印象が異なる。垂れてくる房状の花が死であるという把握が、どこか不思議な感覚を読者に与える。アカシアとは関わりの無いところで何らかの心の屈折があるように思える。

花びらが花びらささえハクレンよ抱くべき腕にひとはかえらぬ

 上句のとらえ方がいい。葉が出る前に咲く木蓮の花。花びらが花びらを支えて、花が屹立している。けれど自分が支えたい腕に、支えたい相手は帰って来ないのだ。空虚な心が伝わる。

みずからを支えるこころだけがある水たまりとは待つことの穴

 人と支え合えないから、自らが自らを支えるしかない。その心を持って生きている。でも人を待つ心はある。心の中の水たまりのように、開いた穴を水が埋めているのだ。

否定して否定してまた飛行機の小さい窓のぶあついガラス

 「否定」の「ひ」の音が「飛行機」を連れてきたかのようだ。飛行機に並んだ小さい窓はどれも気圧の変化に耐えられるようにとても分厚い。否定しても否定してもその心に入りこめない人のように何かを守っているのだ。

湧き水が石と光を掻きまぜて悪意はひとに溢れつづけて

 こんこんと湧く水が石の上で光を反射している。清新で美しい光景のようだが、作中主体はそこに悪意を見る。人の心に湧き続ける悪意を、透明な湧き水に喩えることで、どうにも押しとどめられないという気持ちが表されている。

雨ふふむ紫陽花は地に触れておりまた気やすめの言葉流れて

 雨を含んだ紫陽花が頭を垂れて地に触れている。重苦しい光景だ。おそらく作中主体の心情も表しているのだろう。そこへ誰かが慰めの言葉をかけてくる。それはただの気休め。「また」という語に、言葉だけではどうにもならないという苛立ちがこもる。

砂子屋書房 2020年5月 2500円+税

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