小池光『梨の花』
第十歌集 2014年から17年の歌を収録する。作者の年齢では67歳から70歳である。現代短歌の最前線で文体と言語を改革してきた作者の、現在を映し出す歌集。
崖(がけ)として人の齢(よはひ)はあるものか十七歳の崖六十七歳の崖
年齢を崖と捉える発想にハッとする。人はその崖を見ても、見ていないふりをして通り過ぎるのだ。安全な道はどこにでもある。しかし崖の底を覗かなければ、本当に生きていることにはならない。若いから年を取ったからと言って崖の高さや危険度に差があるわけではない。人はいつも崖のそばにいるのだ。
仙台駅頭金(かね)乞ひをりておそろしき傷痍軍人が記憶のはじめ
傷痍軍人が金を乞うさま。そのおそろしさ。おそろしいのは彼らの惨めな姿やその演出ではなく、戦争中は命を捨てる覚悟をした人が、生きるために金を得ようとする気迫だ。何をしても生きなければいけない。自分たちの命と引き換えに安寧を得ようとした世間から、金を引きずりださねばならないのだ。私も幼い日に土下座して金を乞う傷痍軍人を見た。あの時感じた、どうしようもない申し訳無さを小池の歌の「おそろしき」に重ねる。
物理教師やめて九年か二次方程式の根(こん)の公式さへも忘れつ
九年か、の「か」に感慨がある。文語体で作る短歌のなかの、そこに普段通りのつぶやきがある。「さへも」というのだから基本的な公式なのだろう。全く理系音痴の私には分からないのだが(検索して公式を見ても分からない)、自分も仕事をやめたら、こんなことさえ、と思うようなことまで忘れるのだと思う。少し未来の私を見ているような歌。
プロの技といふもの庭の草取りにもあり短歌にもありなべて尊し
職業に貴賤は無いから、その職業の技にも貴賤は無い。全て尊い。ただそれを実感できるかどうかはその人次第だ。素晴らしい手業を見て、わー、すごい、などと感嘆していても、結局、知的な技の方が尊いと思いがちなのが凡人の悲しいところだ。心から尊いと思うためには、何かの気づきが必要なように思う。
『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一文思ひ出づわれらはしあはせな家族やいなや
「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭の不幸さは様々に異なる。」『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭の一文だ。若い頃に読んだが、アンナが死を選んだ理由が理解できなかった。今なら分かるのかも知れない。小池も自分の家庭を振り返って、幸せであったかどうか問い返しているのだ。子供から見ればどうか。幸せな家族とは何か。
うつくしきシュテファン・ボルツマンの法則をおもひ出すなり初夏(しょか)のひかりに
これも検索したが、何のことやら。ただ、数字で表される法則を美しいと感じる人がいることは知っている。「鳥肌が立つ」「美しい」と言っている人が同僚にいた。小池もその美を実感する人なのだろう。初夏の光にも喩えられる美しさなのだ。全ての学問は宇宙の美しさを追求するためにあると私は思う。それが数字で追及するのであろうと、言葉で追及するのであろうと。
春の小川ながれてをりて一瞬にわが電車越ゆそのかがやきを
実景なのだと思う。電車に乗っていて、小さな川を一瞬で越えた。唱歌「春の小川」を思い出すような、のどかな光景を一瞬に横切ってしまったのだ。実景が極まると比喩のように思える。春の小川がかがやきながら流れているような、あたたかい、やさしい時間を自分が乗っている、人生の時間という電車が、一瞬にして躊躇も無く通り過ぎてしまったのだ。
子なきゆゑ生にさほどの執着なしとぽつりと言ひし吾子をかなしむ
子供がいないから、自分は人生に命にそれほど執着を持っていないのだ、と娘がぽつりとつぶやいた。作者自身は子供がいるわけだから、その気持ちを完全に理解することはできない。けれど、自分に「子を持つ」という幸福を与えてくれた我が子が、その幸福を持てないのだという、どうにもできない悲しみに作者は包まれている。
三畳一間にふたり棲めるか「神田川」きくときつねにうたがひにける
三畳一間の小さな下宿で同棲した、という前提の「神田川」。70年代フォークソングの秀歌だ。私も大好きな曲だが、そんな狭い空間で二人の人間が暮らせるか?などと思いながら聞いたら身も蓋も無い。歌詞ですからね…。短歌でもそうした虚構というか、誇張はあるだろう。青春の哀感と大人の現実。その落差を笑える形で呈示した歌。
比叡山むかしのぼりて蝉しぐれはたらきざかりのわれ歩みをり
上句と下句で視点がずれる。上句では、作者が昔の自分を思い出している。下句では、思い出した時点に移動して、しかも、外からの視点で自分を眺めている。その調節弁のような働きをするのが三句の「蝉しぐれ」だ。働き盛りの頃は毎日忙しくて大変で、必死で生きているのだが、それをつらつら思い出す年齢になると、その日々が輝いて思える。しんとした心の中に蝉の声が響く。
現代短歌社 2019年9月 3000円+税