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川野芽生『Lilith』

 第一歌集374首 旧かな文語体の端正な歌が並ぶ。旧約聖書、新約聖書、ベオウルフ、アーサー王伝説、ギリシア・ローマ神話などの神話、またそれらの流れ込んだ西洋文学を取り入れて舞台を構成する。感情は現代の日本に生きる者のものだが、現実への光の当て方が作者の特徴であり、そのままには描かない。しかし抽象的とも違う。美しい言葉で構成された歌の中にどれほどの生身の感情を汲み取れるか、読者も試される。

折りたたみ傘のしづかな羽化の上(へ)に雷のはるかなるどよめき

 雷が遠くに聞こえたので、折り畳み傘を開いた、ということだろう。折り畳まれた傘を開くことを、蛹から蝶になる羽化と捉える。主体が傘を開いているのだが、傘が生命を持って羽化しているように思える。「雷」も「どよめき」と表現されると生命を持つかのようだ。

指をふれあへば光のあふれ出す奇跡のやうにかはす手花火

 花火から光があふれ出す。花火が燃えるのに理由はない。しかし、主体と誰かの指が触れ合う時、それが理由で花火が燃え出したかのように描かれている。燃えている花火から他の花火に点火することを交わす、と表現した。「奇跡のやうに」で、花火に火がついた瞬間の主体の心の揺れが伝わる。

いつだつてだれかの代はり ほそいほそい肩ひもで身を吊りさげて立つ

 どんな時も自分が求められるのは誰かの代わりとしてなのだ、という上句の把握が辛い。肩ひもが細いのだが、主体自身の身体も消えそうなほどに細い。肩ひもで服を吊り下げているのだが、それを「身を吊りさげて」と表現する。身体も心も宙吊りになったような痛みがあるのだ。

卓に額伏せて眠りを待ちをれば木菟のごときもの背に乗り来

 白黒のエッチング画のような一首。主体はテーブルに額をつけて眠ろうとしている。その背の上に木菟のような精霊が、憑りつくように乗ってくる。夢魔と言えばいいのだろうか。精霊の重さを感じている主体とそれを見る主体が一首の中に同時に存在するようだ。

Edward Burne-Jones〈 Angel  Playing a Flageolet 〉天使なるその楽人の横がほに蝶の口吻のごとき古楽器

 英語部分は詞書。ラファエル前派の画家エドワード・バーンズ‐ジョーンズの描いた絵。絵のタイトルは〈フラジオレットを奏でる天使〉。フラジオレットは縦笛のような古楽器。この歌は素直に見たままの絵を詠っているのだろう。楽を奏でているのは天使、その天使の横顔に縦笛のような古楽器が描かれている。その古楽器を「蝶の口吻」と喩えた。軽やかな音色から蝶が連想されたのだろう。バーンズ‐ジョーンズの華奢な、どこか日本の少女漫画に出て来るような天使の姿が、絵を知らずとも思い浮かぶ。

花はなほ鍵穴なるをわが鍵に合ふ花はいついかに散りしか

 もう花は散ってしまった。けれども花は「なほ」鍵穴であり続けている。何の鍵か。どこかにつながる扉の鍵か。どこへつながっているのか。全ては語られない。ただ分かっているのは主体の鍵に合う花はもう無いということ。だから鍵を回して扉を開けることはできない。また、扉を開けてそれにつながるどこかへ行くこともできないのだ。「いついかに」と問い続けても答えは得られない。

たれかいまオルゴールの蓋閉ぢなむとしてゐる われに来(きた)るねむたさ

 オルゴールの音楽には二つの止まり方がある。一つは巻いたゼンマイが戻り切って、緩やかに少しずつ音楽が止まる。もう一つは蓋を閉めること。その場合はまだ鳴っている音楽が途中で止まる。眠れないのは、脳が忙しく色々なことを考えているということも多い。主体の頭の中では音楽のように色々な思考が廻っているのだろう。それを自力で止められないのはある意味苦しみだ。それを遮るように蓋を閉める大いなる手。主体は眠さを覚えつつ、音楽が途切れることの幸福を感じている。

鳥籠のやうなる白きサンダルに足は翼であればをさめつ

 鳥籠のように、革が組まれているサンダル。爽やかな白いサンダルだ。サンダルには足を入れるものだが、主体はそれは足が「翼」だからと捉える。お足を納めれば、足は鳥籠の中に囚われて、飛べなくなってしまう。理屈で考えれば苦しいことだが、歌のトーンは暗くない。軽やかに歩いているようにすら思える。

さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し

 歌集タイトルともなった一連「Lilith」からの一首。男性社会を告発し、そこで生きる女性としての息苦しさを詠った一連。歌集の中では割と声高なイメージ。逆らう弱者より逆らわない弱者がいい。弱者は「佳し」と誉められ愛でられ庇護されるべし。そんな圧迫するような空気を下句で表現する。今、性別で物を言うのが次第に時代にそぐわなくなってきているし、女性イコール弱者ではないが、女性である限りはこの問題を一度は味わう。特に日本においては、避けられないのだ。この作者の描く女性としての苦しみは透明感がある。おそらく、女性としての思いだけではないのだ。

春嵐。からだにまとふありとあるりぼんが片つ端から解(ほど)け

 りぼんは身を飾るものだろうか、身を束縛するものだろうか。その両方でもあるのかもしれない。春嵐の激しさを、句点で一度遮る。その次の十六文字が全てひらがな。視覚的にも柔らかい。片っ端から解けて、主体は自由になれるのか。それとも自由の心許なさに、途方に暮れているのか。結句の言いさしが内容に合っている。

ヘレネ、手をつないでいて。

 歌集末尾の7首からなる一連。これも男性社会で生きる女性としての息苦しさを詠んだ一連。ホメロスの舞台を借りて、端正にまとめているが、感情が直に伝わって来る。特に好きな一連なので、タイトルを記しておく。

書肆侃侃房 2020年9月 2000円+税

追記:栞について

水原紫苑〈詩歌は口語であれ文語であれ、如何なる意味でも日常の言語によって書かれることはできない。すべての詩歌は常に翻訳なのである。〉栞にも刺激を受けた。短歌に関わる者として、常に心に留めておきたい文章だ。

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