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楠木正成の故郷は豊かな自然と信仰が今も根付く所だった「千早赤阪紀行」後編
前回の続きです。
↓ ↓ ↓
里の隠れ家で山の幸を堪能する
ランチはもちろん食いもん奉行・ミコさんのお勧めの完全予約制のお店です。
目的地はうっそうとした山林を進んで、さらに車1台がやっと通れるほどの狭くて気合の要る急な坂道をグイっと登った高台に、ひっそりとした佇まいの和風山荘です。
レストラン「山橙花」はひっそりではあるけれど、威厳も感じる外観で建っていました。
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下からは全く見えません。
簡単な案内板を頼りに半信半疑で上りましたが、こんなにも風情のあるレストランがあるとは、ちょっと感激です。
中に入るとさらにビックリしました!
素晴らしいパノラマビューに息をのみます。
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合成写真みたいですが違います。
これこそ一望千里というのでしょうか?
3人とも「うわっ!」と思わず声をあげて、立ちすくんだまま呆然と見渡し続けてしまいました。
普通、レストランは料理を堪能するために訪れるのが当たり前ですが、ここは自然を堪能する店なのですね。
日本独自の風土である”四季”を全身で受け止め、堪能する空間なのです。
これほどの”ごちそう”があるでしょうか。
それだけではありません。
お店の外も内も細心の心遣いが随所に施されていて、これもまた日本特有の”おもてなし精神”を感じずにはいられません。
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驚くべきことに、この日は最後まで他の来客は皆無で、私たち3人だけの貸し切り状態だったのです。
儲けだけを考えるなら、たった3人だけの予約は取らないだろうし、たった3人のためだけの心のこもった”おもてなし”に心から感服してしまったのです。
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私は、紀行中の記事といえば歴史話に文字数を使ってしまって、どうしても食事についてはいつもアッサリした感想しかないのですが、ここは別格なので書かずにはいられません。
着いてすぐ、お抹茶とお菓子でもてなされた後、最初の前菜から美味しかった!
「マスのあらい」も歯ごたえがあったし、「ごま豆腐」はしっとりとした粘りがあって、以前食べた高野山のものとはまた違った味わいでした。
メインの「ニジマスの塩焼き」の美味だったこと!
日頃、川魚を食べる機会はほとんどありません。
比較的、鮎は近所の店先に出回るので家で食べたりしますが、ニジマスは売ってないので、なおさら食べる機会はありません。
ただ、息子たちが幼い頃に、この辺りまでマス釣りに来たことがあって、その場で焼く。揚げる、造りの調理はしてもらった事があるぐらいなのです。
この日は、その数少ない機会に恵まれて、貴重な体験をさせていただきました。
また是非、違う季節に来たいものです。
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楠木家の菩提寺「観心寺」
次は、楠木正成ゆかりの古刹「観心寺」へ向かいました。
ここも確か小学生の頃、遠足に訪れたはずなのですが、まったく記憶にありません。
境内を回っても、いったいどこでお弁当を食べたのかさえ思い出す事が出来ませんでした。
ただ「観心寺」にいったという事だけ、頭の中にインプットされていて、その他は何一つ思い出せないのです。
こんな事ってあるのでしょうか?いかに無意識の行動が多かったかを、あらためて気づかされたのです。
だいたい、小学生の遠足地を「寺」や「神社」「歴史名所」などにしても、ほとんどの子供は興味ありません。
奈良の「平城京跡」や「二上山」もただの広場が広がっているだけで、そこに子供たちは何を見ればいいのでしょう。
大人になって、自身にも積み重ねた歴史があって、初めて興味を持てるのではないかと思うのですが、おそらく学校行事としてはいわゆる社会見学として、”価値ある場所”を選ぶしかないのでしょうね。
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いかにも歴史のある山門ですが、見た目通り観心寺の歴史は古いのです。
飛鳥時代・大宝元年(701)に山岳信仰と仏教・道教を組み合わせた修験道の開祖、役 小角により、当初は「雲心寺」という名で開かれました。
遣唐使船で唐に留学し、真言密教の聖地・高野山を開山した弘法大師空海が通りがかかり、「北斗七星」の力をここに込め、如意和観音菩薩を本尊と定めます。
この観音様は手が6本あり如意宝珠という不思議な珠を持つのでこの名が付いたそうです。
ご本尊を祀る金堂を中心に北斗七星のように7つの星塚としてお堂を建て、本尊と一緒に祀っています。
この「星塚めぐり」をして、1年の厄除けになる事でも有名なお寺なのです。
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北斗七星如意輪曼荼羅 星塚霊場音譜
①貪狼星(子)
②巨門星(丑亥)
③禄存星(寅亥)
④文曲星(卯酉)
⑤廉貞星(辰申)
⑥武曲星(巳未)
⑦破軍星(午)
空海と言えば密教、密教と言えば曼荼羅です。
この観心寺も空海が関わっただけあって、その星塚は金堂を中心に曼荼羅型に取り囲んでいます。
レキジョークルでも、一昨年高野山へ行って、本物の曼荼羅を見ましたが、その迫力に圧倒されました。本家本元はやはりスゴかった。
とにかく、当時は真言宗を極めるルートとして、
高野山
↓
観心寺
↓
飛鳥・川原寺
↓
奈良・東大寺
↓
京都・東寺
というコースで、一日十里(40キロ)を歩くという、4日間の行程が定番でした。
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↑金堂と ↓建掛堂
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建掛塔は楠木正成によって三重塔として建て始められたのですが、「湊川の戦い」で討ち死にしたため頓挫し、未完成のままでした。
塔の最下部層である初重と軒下しかなかったのを、後に茅葺き屋根と小屋組みが建築されました。
今見ると、この建掛塔は和歌山っぽい!
なんか現地では、これだけ雰囲気が違うとは思っていたのですが、どうもはっきりせず、あらためて写真を見てみると、和歌山の鉄砲衆で有名な「根来寺」にんな雰囲気の塔頭があったように思います。
レキジョークルで過去10年間で近畿内の様々な寺社仏閣を回りましたが、京都、奈良、和歌山とでは建物の雰囲気がちょっと違うのです。
それぞれに個性があるというか、醸し出る空気が違うような感じです。
いずれ、時間がある時に写真整理して、それら三カ所の寺社の比較記事を書きたいものです。
さて、楠木正成ですが、永仁2年(1294)河内国赤坂(大阪府千早赤阪村)の豪族の家に生まれました。
観心寺の僧・龍覚坊に学問を、兵法は毛利時親に学び、文武両道の人格が形成され堂々とした武士に成長します。
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山門を入ってすぐ左手にある中院は楠木家の菩提寺であり、正成はここに通って学問を習得したのです。
そして、金堂や建掛塔を通り越してずっと奥に正成の首塚があります。
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延元元年(1336年)神戸の湊川で討死後、足利尊氏によって正成の首級が遺族に送り届けられ、ここに納められて首塚として祀られています。
前回の「あしたづ」記事でも書きましたが、尊氏と正成は、ウマが合っていたようで、きっと尊氏の方も正成を死なせたくはなかったでしょう。
尊氏を味方にするよう、進言するのですが天皇は拒否するのです。
結果、正成は湊川で討死してしまいます。
首塚を見ると、どうしても正成を偲ぶ気持ちが強くなり、
「後醍醐天皇が全て悪い!」と、チコさんと声を揃えて、この一連の諸悪の元は後醍醐天皇だと、私達だけで決着付けました。
正成の死後、観心寺は足利、織田、徳川にそれぞれの圧迫により、最盛期50以上あった塔頭も現在はわずか2坊になってしまいました。
規模がかなり小さくなったとはいえ、現在もなお、境内は自然環境の中で山岳寺院の景観を保持し続け、 日本の史跡として大切にされているのです。
ただ、雑草が多くて、朽ちてしまった感はあり、もうちょっとそれなりに手入れしたら、もっと立派になるだろうなと思いました。
観心寺の御朱印です。
チコさんも、ミコさんも御朱印をコレクションしていますが、私はそれを写真で残すだけです。
どうも手帳などの「帳」が付くものは苦手で、紙媒体でコレクションするより、データで保存したいタイプなのです。
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「直筆の御朱印は久しぶりやわ!」
チコさんが、感嘆していました。
コロナ以降、印刷したものをくれたり、スタンプだったりの味気ない御朱印ばかりだったので、生の字はやはり、躍動感あって生気を感じます。
千早赤阪村は新たな好奇心が芽生える
さて、次の予定は主婦は必ず寄りたかった「道の駅・ちはやあかさか」ですが、ハッキリ言って期待外れでした。
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だいたい、道の駅で本気の買い物をしようと思ったら、朝一番に来るべきでした。
地元の野菜や果物が目当てだったのですが、すでに何もありませんでした。
2階にあった喫茶室でも行こうと思ったのですが、混んでいるようなので早々に立ち去る事にしたのです。
しかし、同じ敷地内には「くすのきホール」や郷土資料館があり、
「楠公誕生遺跡」もありました。
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ここが楠木正成生誕の地だったのですね。
文禄年間に豊臣秀吉が整備させて基礎を築き、かつて楠木邸にあった百日紅の花を植え、元禄年間には当時の領主・石川総茂が保護した記録があります。
そして明治8年(1875)大久保利通の命により建てられたのが、この石碑なのです。
そろそろお茶タイムにして休憩したいと思ったら、さすがミコさんです!
サッと検索してカフェを見つけてくれました。
と、その前に、諦めきれないおばちゃんたちは、帰りに寄りやすい「道の駅・かなん」へ寄って、かろうじて野菜をゲットした事も報告しておきます。
そして着いたのが「CAFEberry 」です。
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まだ16時にもなっていないという、本日は”ゆとりの紀行”です。
いつもは目一杯、夜まで巡り、最後は飲み会になってしまうほどの濃いスケジュールなのですが、この日は近場という事もあって、移動時間が短かったので、こんなにも明るいうちに予定を終える事ができたのは珍しい。
その代わり、大変な体力を消耗しました。
3人とも足はすでに筋肉痛の気配がきてますし、私などはコケてしまった傷がジンジン痛みます。
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ケーキセットをいただきながら、1時間ほどもいたでしょうか?
何を喋っていたのか、思い出そうにも思い出せない。
そういえばいつも話題は尽きないのです。
大阪人→女同士→3人以上
という法則通り、ボケとツッコミで話題は次々と生まれて、姦しいのです。
千早赤坂村を紀行してみたら、大阪の英雄・楠木正成がどう育くまれたか、どのような人物だったかが、理解できたような気がしました。
そして、新たな好奇心が芽生えて、さらに知りたくなったのです。
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拝啓
10月とはいえ、まだまだ夏の気配が去らない季節ですが、私どもはあなたの故郷を訪ねて参りました。
あなたが築き、活躍し、実績を残された山城を登り、教育を受けた学問所も訪ね、おそらくはあなたも見たであろう豊かすぎる緑の山々の景観も堪能しました。
さらに心づくしの”おもてなし”も受ける事にもなり、何とも満たされた気持ちになったのです。
これらの一つ一つの要素が、あなたを育んだのですね。
今さら言っても仕方がないのですが、もし、
「湊川の戦い」がなければ?
足利尊氏と共に行動していたら?
あなたは次の時代にも大きな足跡を残したことでしょう。
ほんの少しご自身の”家”や”命”を大切に考えたら、少しは損得勘定で行動できたはずです。
しかし、それはできなかったのでしょう??
どうしても天皇を裏切る事ができなかったのですよね。
その後、何度も武家政権による幕府はできるのですが、その都度、腐敗し、おおよそ自滅に近い形となって、新興勢力に潰されてきました。
そして、”家”や”命”の「私」を捨て、天皇を支える「公」に生きたという、あなたの精神は、その後も日本人の中に組み込まれてきました。
あなたの死後、約500年も経った頃、天皇による治世を願う事は「尊王」という形で勢力を増し、ついに武家政権を終わらせるのですよ。
しかしです。
相も変わらず、争いは続き、信じられないぐらい膨大な犠牲を払い、それが治まったかと思ったら、日本は資本主義国家と生まれ変わって、驚くべき発展を遂げます。
その代わり、完全に「公」の精神は失われたようです。
庶民だけでなく、日本の政治をつかさどるトップの方々もその例外ではありません。
そのため、今の日本は数々の問題点を抱えて暗澹たる状態となっているのです。
もし、あの時あなたが生き残っていたなら、もう少し今の日本は違っていたのかもしれないと思えてきたのです。
だから、あの時のあなたの決断がとても残念で惜しく、もしかしたらもっと違う形の”散り時”があったのではないかと、思ってしまう次第です。
勝手な憶測ですし、言っても仕方がない事はわかっておりますが、後世を生きる私にはどうにも女々しい感情が湧いてきます。
今回の紀行で、感じた事がいろいろあり過ぎて、思わず筆を執らせていただきました。
この先も、この世を天から見守っていただけたら幸いです。
令和3年10月2日
楠木正成 殿
大木 千世
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こちらの記事も参考に!
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只今、其の三「長州紀行」も執筆中です!
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