「どうする家康」で注目したい幕末史
家康の生涯で一番の修羅場、大苦戦となった武田信玄との「三方ヶ原の戦い」。
圧倒的な強さを誇る武田軍ですが、信玄亡き後は惨めに滅んでゆくので、その対比を感じるためにも、今の状態をしっかり押さえて、今後の勝頼(真栄田郷敦)の動向に注目です。
それにしても、家康が打ち取られたと思える終わり方でしたが、そこは主役ですからオチは必ずあり、種明かしは次週にゆだねられましたね。
家臣の誰かが影武者となったわけですが、ここではあえて記しませんが、次回は涙の回となりそうです。
さて、前回から登場し、その顛末を見守っていた「虎松」(板垣季光人)の登場で、思わず300年後の幕末にまで思いが及んでしまったのは私だけでしょうか?
今回は、後に「井伊直政」と名乗り、徳川四天王に数えられるほどになった彼の子孫について語りたいと思います。
二人の出会いが歴史を変えた
時代は飛びますが、幕末史を変えた大事件のひとつに1860年の「桜田門外の変」があります。
そこで暗殺されたのが、その虎松の子孫である大老・井伊直弼でした。
暗殺された大きな理由の一つに、直弼が実施した「安政の大獄」がありました。
吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎など、今後の日本の行く末を担うはずの優秀な人材を、危険思想人物として、情け容赦なく処刑されたのです。
この井伊直弼の独裁政策への不満が大きなエネルギーとなり、倒幕へと加速したことは周知の通りです。
直弼のご先祖である虎松が、この時、徳川家康と出会い、取り立てられたからこそ、井伊家は三百年にわたり子々孫々とその「恩義」を受け継ぎ、徳川幕府への忠誠は揺るぎなく続いたのでした。
家康の寵愛を受ける
大変な美少年だった虎松は15歳で小姓となった時から、男色でもあった家康にかなり寵愛されたそうです。
成長した虎松はやがて直政と名乗り、数々の武功をあげ、徳川家に尽くしますが、残念ながら、「関ケ原の戦い」で受けた傷がもとでその2年後の41歳で没してしまいます。
しかし、彼が家康に気に入られたおかげで、没落していた井伊家を再興させ、やがては大老・直弼を輩出するに至るのです。
演じているのは板垣季光人さん。
2021年の「晴天を衝け」では徳川昭武役として記憶に新しく、2015年の「花燃ゆ」では吉田松陰の幼少期を演じていたらしいのですが、こちらは私にはまったく記憶にありません。
一見すると女性のような線の細さも、「美少年」だった史実にも当てはまりますね。
幕末史の起因は戦国期にあり
井伊家はとっくに潰れていていたはず
2017年の大河・「おんな城主 直虎」での通り、井伊家では男子が早世したりで、跡継ぎに恵まれず、しかも当時は今川義元の配下にあった弱小大名でした。
常に今川家の顔色を窺う立場であり、直政の父である直親も、結局は誅殺によりあっさり命を落としてしまいます。
直政が生まれる前から、とっくに潰れていてもおかしくない危うい家だったのです。
ギリギリのところで、井伊家の跡継ぎとして生を受けた直政は、後世から見ると生まれるべくして生まれたとしか思えません。
なぜなら、この時に井伊家が消滅していたら、後の歴史は大きく変わっていたからです。
家康との出会いが歴史を変えた
今回の「どうする家康」での出会いの経緯は、おそらく創作なのでしょうが、この時期の井伊家の数々の偶然は、それぞれ大きな意味を持つものでした。
・直虎が女の身でありながら領主となった。(諸説あり)
・直親(父)の死の一年前に直政はに生まれていた。
・直政が徳川家康に取り立てられた。
井伊家は家康にとって、特別な存在となり、また井伊家もその御恩に報いることが第一の使命となったのです。
直弼が継いだのも偶然
「埋木舎」で生涯を終えるはずだった
戦国期の直政が家康のもとで頭角を現わしてから約300年、井伊家は徳川幕府下で、彦根藩主として脈々と務めを果たし続ける中、直弼は1815年に生まれます。
なんと父・直中の14男であり、しかも母は身分の低い側室の庶子だったため、井伊家の家督を継ぐなどあり得ない事でした。
父が亡くなった16歳の時、出世や競争とは離れて学問や教養に身を置こうと、自ら「埋木舎」と名づけた屋敷で隠棲生活に入りました。
その屋敷は今でも彦根城内にあり、レキジョークルでも2014年に訪れましたが、当時の直弼の質素な生活ぶりが伺えました。
後になって思えば、そのまま埋もれていればよかったのかも…
彦根藩主、幕府の大老
ところが、人生はどう転ぶかわからないものです。
次々と兄たちが亡くなり、35歳で井伊家を相続して彦根藩主となり、その8年後には幕府の大老に就任することになります。
時代はまさに外国からの脅威にさらされ、徳川幕府の屋台骨が揺らいだ混沌とした時期でした。
・日米修好通商条約ー天皇の勅許なしの独断
・徳川時期将軍の決定ー14代・家茂(慶福)
これらの強引な政策に反発する者たちを弾圧したのが「安政の大獄」と言われるものです。
結局、「桜田門外の変」で暗殺されてしまうのですが、
この暗殺劇は「水戸藩」が中心だったのが、話をややこしくしています。
水戸藩と言えば、徳川家最後の将軍となった慶喜を生んだ藩で、身内であるはずの藩なのに、なぜこのような苛烈な行動に出たのか?
この水戸藩も奥深いので、後日またまとめてみたいと思います。
いったい井伊直弼とは、幕府の存続を何よりも優先とした政策を強行した忠義者だったのか?
ただ単に時代の流れを読めない堅物だったのか?
どちらにしても、大きな歴史のうねりに呑み込まれてしまった一番の被害者だったのかもしれません。
偶然の積み重ねで歴史は作られる
「虎松」が後に直政となり、瀕死の状態だった井伊家を再興させなければ、幕末に直弼も存在しませんでした。
そして「安政の大獄」も「桜田門外の変」も起こらなかったのかもしれません。
そうなれば、吉田松陰も死なずすんだのでしょうか?
その場合、長州藩はもっと過激になっていたかもしれませんね。
いったい日本史はどうなっていたのでしょう。
まったく違う歴史が出来上がっていたでしょうか?
もしかしたら徳川幕府存続のままで新時代を切り開いたか?
それともやはり幕府は瓦解したか?
歴史とはほんの些細な出来事の積み重ねで、180度違う筋書きになります。
幾通りものパターンの中で、どの筋書きになるかは、ほんの些細なことがキッカケなのです。
そう思うと、私たちの人生も些細な事の繰り返しで選択されたものであり、小さな偶然の連続で未来は作られてゆくものかもしれません。
「偶然」によって歴史は作られたのか。
それともその「偶然」はすでに神が決めた「必然」であるのか。
そう思うと、歴史の流れの中に存在するたくさんの分岐点に、着目せずにはいらないのです。
「どうする家康」のウラの楽しみ方として、今の出来事がここから300年先に、どういう因果関係を生むのかを考察するのも一つの楽しみ方ではないでしょうか。
※トップ画像は「桜田門」
フリー画像「photoAC」より
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