敗者の家の残し方
今川家がとうとう武家としては滅び、戦国レースから脱落しました。
その経緯は、いろんな意味で意表を衝かれた設定でした。
さすがに史実通りに軌道修正するしかないので、その過程は自由な方が面白いのですが、いつも些細なところでギョッとさせられ、それがツッコミ要素になります(笑)。
今回は、その後の今川家を中心にまとめてみました。
今川氏真は努力家だった?
父の突然の死で運命が狂う
氏真(溝端淳平)は1538年、父は「海道一の弓取り」と謳われた名将・今川義元(野村萬斎)、母は武田信玄の姉(妹?)である定恵院との間に誕生します。
信玄の甥にあたるのですね。
とはいえ戦国の世には関係なく、敵対対象となりますが💦
今川家の嫡男としてあらゆる教育を受けて大切に育てられます。
ところが。
1560年「桶狭間の戦い」にて父・義元がまさかの惨敗を喫し、氏真は若干22歳で、突然、今川家の当主となってしまいます。
まったく「心の準備」も「覚悟」もないまま、寝耳に水だった事でしょう。
ここから彼の人生は急転しました。
氏真は信頼度ゼロ
父の死後、祖母である「寿桂尼」が生きていた頃はなんとか面目を保っていた外交政策も彼女の死後、急激に衰えます。
完全に後ろ盾を失くした氏真ですが、それでもなんとか今川家を守り抜こうという気概はあったでしょう。
しかし、代替わりしたとたん、家康は裏切るわ、信玄には攻められるわ、東三河や遠江で反乱は起きるわ、瞬く間に治めていた領地である駿河を追われてしまいます。
氏真は、周りの領主だけでなく、家臣からも信頼されていなかったのです。
暗君とは言い切れないかも
一般的なイメージでは氏真は父から受け継いだ国を滅ぼしてしまった暗君として語られています。
「桶狭間…」の時点で彼は22歳で、現在の感覚ならまだ子供で、同情の余地は十分あります。
しかし、この戦国の世では、そんな甘いことは言ってはいられませんし、氏真も常に臨機応変さを発揮できるよう十分な教育を受けていたはずで、この時代の22歳はもう立派な大人なのです。
回想シーンで義元が語っていましたが、日夜、文武に努力を怠らない息子を心の内では期待し、武人としての才はないが、国を治める才はあると認めていたのです。
だからこそ、自分の代で平和な国づくりを確固たるものしておかねばならないと思っていたはずです。
「桶狭間…」さえなければ、氏真は安定した領国を継承していたはずでした。
信玄や信長など後世に残る当時のスター級の戦国大名たちに囲まれた状況では、暗君と言われても仕方ないでしょう。
分家「品川家」が「高家」として続く
この時、妻の実家・北条氏に身を寄せた氏真でしたが、以後は北条氏⇒豊臣氏⇒徳川氏と、移り変わる権力者の庇護を上手く受けながら存続していきます。
氏真は今川家再興の望みを捨てていなかったのかもしれません。
その後は長生きして、
徳川家康が天下人となり、まさに豊臣が滅びようとしていた時期の1615年、77歳で没しています。
武家としては滅亡した今川家ですが、氏真の次男・高久が、2代将軍秀忠の旗本の高家として、「品川」という名の分家の家祖となるのです。
もちろん今川も宗家として残ります。
跡継ぎ続かずいったんは廃絶となったものの、再興して今川家とともに維新まで続きました。
蹴鞠・連歌・和歌などに通じた文化人だった氏真にとって、かえって彼らしく今川家を守ったと言えるでしょうね。
ちなみに高家とは、
有名なところでは後年の「赤穂浪士」の吉良上野介が浮かびますね。
氏真・正室の糸の足は悪かった?
ドラマで糸(志田未来)が足を引きずっているのを見て、
え!そうだったの?と驚き、調べてみましたが、氏真の正室が足を引きずっていたという史実は見つけられませんでした。
これはもしかして後の展開のためのネタフリなのでしょうか?
それとも、夫婦仲の円満さを際立たせるための演出か?
ドラマでは「糸」という名となっていますが、実際の名は不明で、後の名となる「早川殿」が一般的に彼女を指すものです。
1554年、早川殿は甲相駿三国同盟のため、氏真に嫁ぎました。
その婚儀の行列は、相当に煌びやかな見事なもので多く見物人が溢れたと伝わります。
北条氏康の娘
生年も不明なので、彼女が氏真より年上なのか年下なのかもわかっていません。
私はなんだか年上のような気がします。
駿河を追われた時、自分だけ北条へ帰る事もできたのに、頼りない夫を見捨てることができず、ともに転々と流浪しているからです。
ドラマ中にもあったように山中を徒歩で逃げている様は、当時の高貴な女性としてはあり得ない事なのです。
北条の娘であり今川の正室ともなれば、敵味方関係なく武田から輿が用意されるのが当時の常識でした。
父・氏康は、氏真の不甲斐なさに嘆き、信玄の仕打ちにも激怒して武田との同盟を破棄したのです。
北条に裏切られる
父・氏康の死後、後を継いだ弟(兄?)が、今川の宿敵である武田と和睦してしまいます。
代が変わればよくあることで、この時期の同盟などカタチだけですから💦
さて、その後は先述の氏真に従い、夫婦で苦難の流転生活を送って最終的に頼ったのが徳川家康でした。
そして早川殿は、氏真より2年早い1613年にこの世を去ります。
北条家のお姫様として生まれ、安泰であるはずの今川家に嫁いだものの大名としては滅亡し、流転の後半生を送ることになりました。
一見すると不幸なようですが、権力から離れて夫とともに穏やかに過ごせた時期もあったのではないかと思うのです。
この今川・北条・武田の三つの名家はそれぞれいったんは武家としては滅びるのですが、今川と武田は徳川政権下で「高家」として、北条は河内の狭山藩主として残り明治維新を迎えます。
戦国乱世のペナントレースから脱落しても、改易される藩もある中、「家」が残ったことには不思議なものを感じずにはいられません。
家康は氏真を慕っていた?
今年の「どうする家康」での家康はさすがに主役なので、愛嬌のある誠実なイメージで描かれいますが、それでも氏真を「兄のように慕って」とは、無理があるのでは?
「桶狭間…」のどさくさに紛れて、チャッカリ岡崎城に帰還した時点で、今川を見限っていたと思うのです。
今までのドラマでは、人質となった織田とい今川とでは、織田家の信長と気持ちが通じ合っていたという設定が多いのですが、今回は今川のようです。
しかし、北条を出たあと、徳川家康を頼ったのをみると、本当に慕っていたのかもしれません。
氏真は天然なのか、潔いのか。
自分の家を滅亡させた原因を作った家康を頼るなんて氏真はブライドも捨てたのでしょうか?
仕方がなかったとはいえ、この行為は余程の天然なのか?
それともキレイに過去を捨てられる潔い性格なのか?
家康が氏真に三河の牧野城を与えたのは、戦国大名として再興させるだけの能力があるかどうか見定めていたのかもしれません。
家康の方も今川家を復活させたい気持ちはあったように思えます。
しかし、家康は氏真にリーダーとしての能力はないと判断するやいなや、たった一年で牧野城城主を解任しています。
さらに、晩年には氏真が頻繁に家康を訪ね、昔話ばかりを繰り返すので辟易し、品川に立派な屋敷を建ててやり、体よく追っ払ったという話を何かで読んだ記憶があります。
氏真の空気の読めない天然さと、
迷惑だとハッキリ言えない家康の困惑した様子が面白いですね。
実利主義だが寛容な家康
家康は「たぬきおやじ」と言われるように、そしらぬ顔をしながらも徹底した実利主義者です。
能力がないと判断するシビアなところと、切り捨てずに面倒を見続ける懐の深さとの両方を持ち合わせています。
こういう風に人を見る慧眼と適材適所の人事配置の判断力に長けているからこそ、天下を治めることができたと思います。
同時に氏真自身にも憎めない愛嬌があったのかもしれません。
権力者の懐にスルリと入って頼りながら、結果的には今川家を存続させ、文化人として生涯を送ったことを思うと、天然なぐらいの方が上手く世の中を泳げるようです。
あれこれ計算して生きるより、時代の流れに身を任せる方が、戦国の世には一番の得策だったのかも。
お・ま・け
とうとう桜が満開です!
来週早々にレキジョークルでお花見の予定なのですが、もう桜は散ってるなぁ💦
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