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【今日の読書感想】『古典と日本人』

■『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』

第一章「古典意識の成立」と第三章「古典的公共圏の確立」を読んだ。
すっっっっごい面白い!!

一昨日、序章「古典を学ぶことに価値や意味はあるのか」を読んだとき、「古典は不要だ」と主張する人に対する恨み言が目に余って著者のこと受け付けなくなりかけたんだけど、本文読んでたらすぐにそんなことも気にならなくなった。

内容についてはまた機会を改めて詳しく取りまとめたいんだけど、取り急ぎ第一章で押さえておくべきだと思ったことの一部を簡単に書き留める。

  1. 「古典」とは厳密に言えば、注釈や注釈書を持つ書籍のことを指す。注釈が付いた書籍には権威が付き、古典と化す。
    「昔から読み継がれてきた書籍」という、一般的に言われる定義はかなりカジュアルな捉え方。

  2. 他国の古典では宗教経典(『聖書』や『コーラン』)、思想哲学(『論語』やギリシア哲学)、歴史書類がメジャーなのに対し、日本の古典で最もメジャーなのは文学書。
    具体的には、『古今和歌集』『伊勢物語』『源氏物語』『和漢朗詠集』の四書。

  3. 平安末期に活躍した歌人の藤原俊成は、文学書を初めて「古典」として意識した。
    彼は、和歌を詠む際に「その場での情景や心情を表現する」だけでなく、「前代に詠まれた歌を踏まえて歌作りする」ことに価値を見出した。その際に参考にされたのが『源氏物語』や『古今和歌集』。

  4. 平安末期当時は印刷技術がなく、手書きで書き写すことによって書物が作られていた。
    そんな中、写し間違いや意図的な改変によって原本とは内容の異なる写本が出回ることがしょっちゅうだった。
    藤原俊成の息子である藤原定家は、『古今和歌集』『伊勢物語』『源氏物語』の三書の写本を比較・統合して、当時の原本を限りなく再現した「本文」を作り上げた。

  5. 日本の「古典」の核を築いたのは、藤原俊成・藤原定家の二名。

一般的な文化史の勉強では、書籍の名前やそれを書いた人物名を覚えることはあれど、政治史における政権交代のように、「誰が文化のターニングポイントを作ったのか」はあまり学ぶことがない。
この本はそういった文化史の一面をカバーしてくれるので、読んでいてとても知的好奇心が満たされる。

点と点が、猛烈な勢いで線になっていく快感。

政治史においても、文化は政治に対して大きな関わりを持っている(特に、江戸時代以前では)ので、文化史の流れを知ると政治史まで理解が深まって良い相乗効果が生まれる。

本当に面白い。序章で侮ってたけど本当にいい本。

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