マガジンのカバー画像

短編小説

30
運営しているクリエイター

記事一覧

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑦

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑦

きっかけになったのは一枚の古いポートレイトだった。

紗英とふたりで実家にある母の遺品を整理していたとき、それはまるで春光を待ちわびていたかのように、わたしたちの前にあらわれた。長いこと眠っていたために色と艶が失われていても、そこに映る少女の瞳までは輝きを失っていなかった。

写真には、瀟洒な教会を背景に、祭服に身を包んだ中年の神父と口元を綻ばせて笑う頑是ない少女が映っていた。わたしたちはその少女

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑥

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑥

それからというもの、わたしは暇を見つけては紗英の店へ顔を出すようになった。

紗英の料理は疲れた身体を癒してくれたのみならず、寂しさで震えた心を温めてもくれた。わたしは、暗く閉ざされた人生に光明を求め、さらには、喪われた母親の温もりも求めた。

もっとも、紗英の方も、まったく同じことを考えていたかもしれなかった。彼女は、母を喪った寂しさを、わたしで紛らわせようとしているふしがあった。

母と紗英は

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑤

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑤

けれど、その後には、いつも何の足跡も残ってはいなかった。季節がうつろい、街がちがう色に染められていっても、わたしの中の季節は、死のように暗い冬を閉じ込めたままだった。母の通夜で、あの女の言ったことが、わたしの歩く道から光を遮っていたのである。

母は、「先生」と呼ばれた男の種を、胎内に孕んだ。本来なら、それは絶やされるべきはずの命だった。なのに、穢れた子は母胎から吐き出され、名前を与えられて、巡る

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」④

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」④

その日は、春の柔らかい日差しが雲間から降り注ぎ、死者を弔うにはいささか眩しすぎるくらいだった。

母は従容とした面持ちで棺に横たわっていた。質感を失った肌は、陶器のように透き通り、窓硝子を透かして入ってくる月明かりを柔らかく弾いた。この世の軛から解き放たれた死者が明るく笑っているように見え、その逆に、苦界を生きる生者が沈鬱な表情を浮かべているのはとても滑稽だった。

わたしは、生ける屍のようになっ

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」③

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」③

けれど、それは、今にして思えば、「逃げ」だった。

実際、わたしは、自分の道を歩いているように見えながら、自分を縛りつけるものから逃げていたのだ。

あの日、あの母子の話を聞いたときから、わたしの中にわきおこった疑問があった。

わたしは、ただヒロシちゃんに生かされていたのではなく、ヒロシちゃんが失った誰かの代わりに生かされていたのではなかったのか?

そして、母はそれを知っていながら、ヒロシちゃ

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」②

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」②

それから時が経って、夢見がちな少女は大人の階段を上っていった。ただ、ヒロシちゃんの記憶は、季節が色褪せるようには消えてくれず、わたしの中で永遠に消えない十字架として燻り続けていた。

それは母とて同じだっただろう。

わたしが実家を出てからも、ヒロシちゃんからの仕送りは続いていた。通帳に羅列された数字は、何かの暗号のようにも乱数表のようにも見え、それを見る人間を、いたずらに不安にさせた。母は何度と

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」①

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」①

わたしは自分一人の力で生きているのではなく誰かによって生かされているのではないか。

季節がめぐり、街が彩られていくたびに、そういう想いが頭の中を通りすぎていった。あいにく、わたしはそれに目を背けていられるほど傲慢な女ではなかった。

誰かに生かされているという感覚は、誰かに守られているという喜びであり、また、その誰かの想いに応えなくてはならないという十字架でもあった。

わたしも母もその十字架を

もっとみる
短編「父の秘密」

短編「父の秘密」

紅茶にマドレーヌを浸すと、幼い頃の温かい記憶がふつふつとよみがえる。そんな出だしで始まる小説を、大学時代に読んだことがある。

それと同じように、母の口紅を引いたとき、がらんどうになった意識の底へ、温かい記憶が注ぎ込まれた。

世界にとっては一瞬でも、私にとっては気の遠くなるような昔の出来事。

甘美な記憶は、ほんのわずかではあるけれど、私から喪失感を拭ってくれた。

あの時の私は、混沌とした世界

もっとみる
短編「この世のどんなものより」

短編「この世のどんなものより」

あの女から本など借りるべきではなかった。

これまでにも、ジュネやセリーヌやバタイユといったフランス人の本ばかりを借りたが、中学を出ているだけの俺には難しくて、最後まで読めたためしがなかった。

キャバ嬢の送迎をしているだけの頭の悪い俺に、どうしてこんな難しい本ばかりを貸してくれるのか、いくら考えてみてもさっぱり分からなかったが、最近になって、ようやくその理由がわかった。

最近借りたユイスマンス

もっとみる
短編「あなたが消えてしまいそうで」

短編「あなたが消えてしまいそうで」

秋の訪れを待つにはまだ早かった。

街ゆく人々を蕩けさせ、狂熱へと駆り立てたあの夏は、このまま永遠に続いていくように見えた。街は光と大気の揺らめきがはっきりと捉えられるほどに明るく、電車の窓を透かして目の前に迫ってきた。いつか大志と見たピサロの画集にも、こんな絵が描かれてあった。

美郷(みさと)は大志と隣町の美術館へ行く約束をしていた。しかし、その約束が果たされることは決してなかった。隣町へ行く

もっとみる
短編「水曜日の女」

短編「水曜日の女」

私はあの男から本当の名前で呼ばれたことがない。これから先、名前で呼ばれることがあったとしても、月曜日の女や火曜日の女と間違えられそうな気がする。男にとって私は水曜日の女でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

水曜日になるたびに、男は私の身体を激しく求めた。密会先は熱海の湖畔にある瀟洒なコンドミニアムと決まっていた。日常の憂さを忘れて女の股ぐらに顔を埋めるには東京はあまりにも騒がしいのだ。

もっとみる
短編「壊れた人」

短編「壊れた人」

外では雨が銀色の糸となって地面に降り注いでいた。雨音が壁の裏側から背中へと伝わってきて、私は自分の身体が楽器になってしまったような錯覚を覚えた。私はそれがちっとも嫌ではなかった。

私は警察署の待合室でお兄ちゃんが帰ってくるのを待っていた。

壁際に置かれたテレビでは「連続児童殺傷事件」のニュースが流れていた。そこには「塾の経営者逮捕」というテロップがでかでかと表示されていた。

ソファに座ってい

もっとみる
短編「ペーパームーン」

短編「ペーパームーン」

その街へはできれば行きたくなかった。

この仕事に就いてからそろそろ10年になるが、幸い、担当区域に選ばれたことはない。

しかし、運命というのは実に因果なものである。

この春、同僚の田中が東京支店へ栄転した関係で、俺はとうとう、その街を受け持つ羽目になった。

会社から辞令が下りた時、何だか過去に復讐されているような気がして、10年という月日の重みを、今更ながら感じた。

考えてみれば、あの女

もっとみる
短編「花言葉は再会」

短編「花言葉は再会」

人が死んでしまった時、その事実を受け入れて前へ進むのに、大抵の人は多くの時を費やしてしまう。死んだ人が大切な人であったならば、尚のことである。

それは、無論、人間のエゴと無関係ではない。

人間というのは、皆、自分勝手に生きていて、都合の良いことはいつまでも覚えているくせに、都合の悪いことは受けつけようとしない。

私という男も、ご多聞に漏れず、そんな人間であった。

私は妻の死を受け入れなかっ

もっとみる