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短編「ペーパームーン」

その街へはできれば行きたくなかった。

この仕事に就いてからそろそろ10年になるが、幸い、担当区域に選ばれたことはない。

しかし、運命というのは実に因果なものである。

この春、同僚の田中が東京支店へ栄転した関係で、俺はとうとう、その街を受け持つ羽目になった。

会社から辞令が下りた時、何だか過去に復讐されているような気がして、10年という月日の重みを、今更ながら感じた。

考えてみれば、あの女と別れたのも、ちょうど10年前だった。

10年前、前の会社で働いていた時、俺は上司の奥さんと不適切な関係を持った。

上司と奥さんは夫婦仲が特に悪かったわけではない。ただ、上司の側に男性としての致命的な欠陥があって、そのことが女の心に不安の萌芽を生んでいた。

女は俺と枕を交わすたびに、母親になりたい願望を告白した。俺はそれを複雑な想いで聞いていた。女は旦那への不満から俺に近づいてきたわけだが、俺はその恋を火遊びで終わらせるつもりはなかった。その時の俺は女のためならすべてを失ってもいいとさえ考えていた。

だが、俺たちの関係は、俺の描いた青写真通りには身を結ばなかった。

破綻があまりにも早く訪れたからだ。

俺と女の関係はすぐに上司の知るところとなり、俺たちは世の中のすべてから断罪され、関係の清算を余儀なくされた。

その後、風の噂で、女が俺との子供を身ごもったときいた。俺は女の口座に毎月金を振り込むようになった。一度だけ女から長い手紙が来たが、俺はそれに返事を書いたことがない。手紙の消印はその街の名前になっていた。

あれから10年、俺は、その女が住んでいると思われるその街へ向かった。

その道すがら、一軒の葬儀会館の前を通り過ぎた。建物の前には喪服を着た人々がひしめき合っていて、皆、沈鬱な表情を浮かべていた。空が陰鬱な色に淀んでいたのはきっとそのせいだろうと思った。

俺は、女に会えるかもしれないという淡い期待と、できれば会いたくないという不安を同時に感じながら、その街にたどりついた。

車のトランクには契約関係の書類がうず高く積んであった。自分は、つくづく因果な商売をやっていると思った。あのような葬列を見た後だからこそ、余計にそう思うのかもしれなかった。

俺は書類の束を持って客の家を一軒一軒訪ねて回った。だが、素性の知れないセールスマンの売り口上に煽られて、契約を結ぶ客など誰一人としていなかった。

俺は這々の体で近くの公園へ行った。公園にはすでに先客がいた。

噴水の近くに置かれたベンチに、女の子が浅く腰をかけて座り、陰鬱に淀んだ空を、取りつかれたように見上げていた。

女の子は不釣り合いに黒い服を着ていた。俺は女の子の隣にそっと腰を下ろした。女の子が俺を不思議そうに見た。俺は女の子に話しかけた。

「お家に帰らなくていいの?」

「誰もいないもん」

「お母さんは?」

「死んじゃった」

「そっか。ごめん。嫌なこと聞いちゃったね」

「ううん」

その時、俺は、この街に来る途中で見た葬列のことを思い出した。

「もしかして、今日、お母さんのお葬式だったんじゃないの?」

「うん、つまんないから、抜け出してきちゃった」

「それはマズイでしょ」

「だって、本当につまんないんだもん」

「皆、心配してると思うよ」

「心配なんかしてないと思う」

「どうして、そう思うの?」

「だって、皆、私の悪口言うんだよ」

「悪口ってどんな?」

女の子は悲しそうな顔で答えた。

「私はいらない子だったんだって」

俺は女の子の言葉にとても驚いた。

彼女が言ったのとまさに同じ言葉を、かつて、女も言ったからである。

あれは女と二人で古い映画を観ていた時のことだった。

モノトーンを基調にしたスクリーンの中で、未亡人相手に聖書を売りつけるケチな詐欺師と母親を亡くしたばかりの幼い女の子が向かい合っていた。多情だった女の子の母親は生前に複数の男と関係があり、女の子はそのケチな詐欺師こそが自分の本当の父親なのではないかと信じているフシがあった。

女は劇中の女の子にかつての自分を重ね、「私、いらない子だったんだって」と悲しそうに言ったのである。

あの時の俺には女にかけてやる言葉などなかったが、あれから10年経って、まさか同じ台詞を聞くことになるとは思わなかった。

女の子を見ていると、涙が勝手にあふれてきた。それは、彼女に同情したからでもなければ、昔の女を思い出したからでもない。自分のせいで確実に苦しんだ人間がいることを、思い知ったからだった。

女の子が俺の顔を覗き込んできた。

「おじさん、どうして泣いてるの?」

「ごめん。ちょっと、昔のこと思い出しちゃって」
 
「昔っていつくらいの話?」

「10年くらい前かな」

「誰のこと思い出してたの?」

「昔、好きだった人」

「その人とどんな話をしたの?」

「その人も子供の頃にいらない子だって言われてたんだって」

「じゃあ、私と同じだね」

俺は少し間を置いてから、女の子に聞いた。

「…君はお父さんに捨てられたと思う?」

女の子は怪訝な顔をした。

「どうして、そんなこと聞くの?」

「お父さんのことを恨んでいるんじゃないかと思って」
 
女の子は頭を振って答えた。

「ううん。皆ね、お父さんが悪い人で、お母さんは騙されて私を産んだんだって言うけれど、私はそう思わない。私はお父さんが良い人だったって信じてる」

「そっか」

女の子は空を見上げて言った。

「私ね、お父さんがこの世界のどこかにいると思っている。お父さんのこと探して、お父さんに会うことができたら、言おうと思ってるんだ」

「何て言うつもりなの?」

「ありがとうって。お母さんを好きになってくれてありがとうって」

「そっか」  

俺は溢れる涙を指で拭いながら言った。

「でも、その前にちゃんと、お母さんにお別れを言わなきゃね」

「そうだね」

俺と女の子は向かい合って笑った。曇天の空に綺麗な虹がかかっていた。

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