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短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」④
その日は、春の柔らかい日差しが雲間から降り注ぎ、死者を弔うにはいささか眩しすぎるくらいだった。
母は従容とした面持ちで棺に横たわっていた。質感を失った肌は、陶器のように透き通り、窓硝子を透かして入ってくる月明かりを柔らかく弾いた。この世の軛から解き放たれた死者が明るく笑っているように見え、その逆に、苦界を生きる生者が沈鬱な表情を浮かべているのはとても滑稽だった。
わたしは、生ける屍のようになって、長いこと、物言わぬ母と向き合った。その間に、喪服を着た人々が我が家を訪れては、三々五々に帰っていった。そうして、その後で、夜が一段と深まってくると、一人の女が人目を憚るようにして家にやってきた。女は、これまでにあらわれたどんな訪問者ともちがって、母の死に心底打ちのめされているように見えた。
女は焼香を済ませてから、わたしに向き直り、深々と頭を下げた。そうして、問わず語りに語り始めた。
女はかつて母と一緒に錦糸町のクラブで働いていた。当時の母は九州から出てきたばかりの苦学生で、都会の垢を啜って生きてきた女には、ガラス細工みたいに危うくて儚げな存在に映った。母は人目を引くほど美しいわけでもなければ愛嬌があるわけでもなかったけれども、雪の結晶を刷いたように透き通る肌は見る者をたちまちのうちに虜にした。
母の噂は狭い東京の中で瞬く間に拡がり、店は母を見たさに集まった客たちで連日賑わった。その中に、「先生」と呼ばれる60過ぎの老人と彼に金魚の糞のようについて回る人の良さそうな男がいた。「先生」が、政治家だったのか、医者だったのか、あるいは、弁護士だったのか、今となっては分からないけれども、とにかくも、女の目から見えた彼は、先生という響きからはほど遠い弱々しさを、全身から醸していた。けれど、その「先生」も、所詮は、老人の皮をかぶった「男」にすぎなかった。「先生」が、他の男の例に漏れず、母に対して欲望を感じていたのは、火を見るよりも明らかだった。
「これは、あくまで、私の想像ですけれど」と、女は断ったうえで、後を続けた。
「先生」が店に通うようになってから3ヶ月が経った頃、女が出勤するために夜道を急いでいたところ、界隈のラブホテルから母が泣きながら出てきたことがあった。母の股は赤く滲み、黒くぬめった血が糸を引いているのが、夜目にも見えた。そうして、彼女の後ろからもう一つの影があらわれたのを、女は見逃さなかった。月明かりがほのかに滲んで、影の正体が次第に明らかになっていった時、体内の血が瞬時にして引いていくのを、背中に感じた。
影は「先生」と呼ばれたあの老人にちがいなかった。女は泣いて蹲る母の手を引いてその場から逃げた。その後は、考えることを放棄したように、夢中で夜道を駆け抜けた。老人は別に追いかけてくるでもなく、夜のただ中で彫像のように立ちすくんでいただけだった。
そのことがあってからしばらくして、母は店に出勤してこなくなった。あの金魚のフンみたいな男が女のマンションをたずねてきたのは、折しも、そんな頃だった。男は何も言わずに封筒に入った金を渡してきた。世の中にはお金で解決できないことがあると言って、女は男に金を突き返した。男は黙ってそれを受け取り、厚い雲が垂れ下がった夏の空の下を、とぼとぼと帰っていった。
わたしは、女の話に耳を傾けながら、棺に横たわる母を見ていた。そうして、母の顔に拡がった皺の数を数えていた。同じ時代を同じように生きてきたはずなのに、母の皺の方が女のそれよりも多かった。
「それはいつくらいのお話でしょうか?」
「30年前です」
わたしは母の皺を指でゆっくりとなぞった。わたしと母の間に横たわる空白が鋳型に蝋を流し込むみたいに埋められていった。
独白を終えた女にわたしは訊いた。
「そんなことをわざわざ言うためにいらしたのですか?」
「わたしは、あなたが真実を知るべきだと思いました」
「それを聞いて、わたしがどう思うか、想像してみましたか?」
「お母さまはあなたを守ろうとした。これから先、あなたが何も知らないで生きていくことに、私は耐えられなかった」
女はそれだけ言うと、おもむろに腰を上げた。そうして、部屋に垂れた静謐を乱さないように、足音もなく引き上げていった。
自分の人生を生きようとしていたわたしにとって、それは過去からの復讐にほかならなかった。
その時、わたしは29歳で、母は50歳だった。そうして、わたしの中には汚れた血が流れていた。
わたしは自分の中に流れる血を感じながら、暗く冷たい道の上を歩いていかなければならなかった。
つづく