自分の"心の鬼"退治の話とか。災い転じて福となしたい。
良くないことは退治、退散ではなく、善に変えて送り返す。(私自身の私自身に対する心の向き合い方の工夫のお話です。)
たとえば、自分の一つ一つの気持ち。
すべてを否定したくない。
私の心の鬼(ひどい悲しみや怒りとか)は退治されたあとどこへ行くの?
鬼は福になって私のところへ帰ってきたらいいんだよ。
泣いたり怒ったりして(自分の中で)ひとしきり自分と対話し、見つめる。
対人もそうだけど、対自分も話し合いって大事。
一度鬼は外に出してから、その鬼さんと膝を突き合わせて、相談する。
"悲しかったんだね。
それは大変だったね。
まったく失礼しちゃうわね。"
それはそれは私が丁寧に話を聴こう。
そうしていると、きっと必ず鬼は福に変身して、帰ってきてくれるはず。
その時鬼さんをねぎらって、"おかえり。お疲れさま。"って自分のもとに戻そう。
これは他の誰かじゃなく自分にしかできないこと。
思っちゃいけないことなんて、きっとないよ。
(思いを行動に移すことはTPOに合わせ、道徳倫理、モラル、良識、法等社会のルールを鑑み慎重にならねばならないけれど。)
感情は必要だから生まれてきた。
自分のことは自分が1番、知っているよ。
私が私をゆるす。
まだ出会いもしていない誰かへ。
どうか誰も見ていてくれないなんて思わないで。
もし、その時人は見ていなかったとしても。
(あとで見ていてくれた人がいたのだと気づくこともあるよ。)
あなたががんばっていることを、お日様は見ている。
太陽と月、星たち、山や草木、花々は話こそしないけれど、動かないけれど、あなたのことをよく見ている。
知っている。
忘れないで、とは言わない。
忘れてしまうのが私たちだから。
だから忘れたら"思い出して"みてほしい。
なんて、届いたらいいのだけれど。
"誰も、見ていない、見てくれていない。"とか、
そう思うこともあるかもしれないけれど、本当にそうなのだろうか。
自分がいちばん、見ているし知っていると思う。
いいこともそうでないことも。
ありのままでいい、なんてことは、ないかもしれない。
でもありのままの自分を、自分がじっくり見つめる先にあるものと出会うことで見えてくることが、あると思う。
なかなか、ときに忍耐力がいることかもしれないけれど。
我慢はよくないけれど、その代わり相談や譲り合いは必要で大切だから。
自分の心や、人の考え等と。
話がいろいろでごめんなさい。
一つ一つの自分と対話して、自分を大切にして、生きていきたいと思う。
"災い転じて福となす"という言葉を体現したい。
つらい思いをしている方のこころが、太陽の光でつつまれますように。
まとまりないまま終わります。笑
お付き合いいただき、ありがとうございました。