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#61 継続するコツがわかってきた話

本日6時45分に起床。
本当は6時30分に起きたかったのだが、昨晩の就寝時間が遅くなってしまったため少しだけ時間をずらすことにした。
スケジュール通りではないものの、臨機応変でもあるのでよしとする。
15分の誤差であれば、体内時計が狂うことも無いだろう。
といった具合で、とりあえず早起き習慣は継続できている。
もっとスケジュールを具体的に組んでしまっても問題なさそうだ。
一人暮らしであれば、もっと自分の思い通りに日課とか予定を組めていいのだろうと思う。
私は一人暮らしをしたことがない。自立心が強い時期/時機に勢いで出てしまえば良かったと強く後悔している。
これについてはまた機会を改めて書きたいと思う。

今日は車を運転した。
私は運転に苦手意識がある。
多分、情報が多すぎるからだ。正直、疲れる。
それから、集中しなくてはならないから、ぼんやり考え事しながらとか、よそ見しながら移動することができない。それが私にとってつまらない。
徒歩が一番容易で、かつ楽しい。しかも無料である。ちなみに電車も空いている各駅停車に乗るのが一番快くて好きだ。
私はあまり時間を気にして動かない。そういう習慣がない。だから、急ぐこと自体が殆ど無い。レストランで料理を待つことがとても得意である。いくらでも待てる気がする。運転時の渋滞も苦に思った試しがない。
時間に縛られることがないと、不用意にイライラすることは無くなると思う。時間があると目的遂行型の思考が強くなり過ぎてしまう気がする。
目的とか目標が強すぎると、それが達成できなくなったときに強い憤りや自責などの感情が生じる。計画性が強すぎると遊びが無くてつまらない人になってしまう。それで幸せならば問題ないのだが。
けれども、私が持つ従来の時間感覚(カイロス)を尊重し過ぎると、時間にルーズ過ぎて、いざ社会に出た時に強いストレスを感じるので、時間/スケジュールで動く練習を現在実践している。
生きるということは、毎日毎日何かを実践し続けることである。
日々のタスクをこなしているのは雇われ労働者やフリーランサーだけではない。主夫/主婦だってそうだ。
そしてひきこもりだって、生き抜く力と術を得て、それを実践していく必要がある。
私はそう思っている。

車の運転は、情報量が多い割には、思考の多様性がない。
・時間を守る
・無事故無違反で目的地に到着する
この2点に集中している。
なるほど集中するからこその楽しさはあるかもしれない。
私は坂道を下るときの、重心の移ろう感覚が好きだ。車と自分が一体となるような感覚。
しかし総じてみると、目的とか規範が強すぎて疲れる。そして他者は制御不可能だから思いもよらない行動をとる。それに驚くこともある。規範は厳しいが、現状は厳しいカオスが広がっている。規範と混沌の荒波だ。世知辛い。
また、近年は高齢者のドライバーが増えているから、それ専用の配慮も欠かせない。
高齢者の感覚は、若者のそれとは随分異なるのだろうと思う。
だから、こちらが警戒し、回避する必要がある。自分の身は自分で守る。法は弱者を救ってくれるかもしれないが、先回りして命を救ってはくれるわけではない(抑止力にはなるだろうが)。
なので、基本的には他の車は突っ込んでくるもの、ぐらいに思うようにしている。いくらかチープではあるものの、精神的な保険をかけている。

今日の運転中、noteに書きたいことがいくつか浮かんでしまって、少し困った。
私は運転中に考え事をするときっと死ぬ。そういうリアルな感じの不器用さがある。
それで結局、メモを取ることもできないので、アイディアを流した。それは下流へと向かっていった。
アイディアを必死で捕まえることも大事だが、固執せずに手放すこともまた必要だと思った。
困ったら他者のnoteを読めばいい。大概アイディアが浮かぶから。偶然性も積極的に取り入れたいものだ。私はジョン・ケージをどんどん許容できるようになっている。
それに、私のnoteは「便所の落書」のようなものだから、アイディアを一つ二つ見失ったところで何になる。それがどうした、と思うのだ。よくわからん便所の落書が消えて誰が悲しむというのか。心底どうでもいい。
私はnoteを開始してからというものの、毎日記事を投稿している。
決して絞り出しているわけではない。
書くことが枯渇することはきっとない、そう予感している。
「書くべきこと」を定めるから書けなくなるのではないか。
「べき」と「ねば」は人の動きを止める。ある意味、魔法の言葉。黒魔術だろうか?
それから、ちゃんとやろうとすると億劫になってやる気が失せる。
要するに、自分に課すタブーが多いと動きが止まる。
逆に、相手の動きを止めたい時は、手続きを煩雑にする。何だか身に覚えのある話ではないか。これを自分にやってどうする。自虐はもう終わりにしよう。
兎にも角にも、日記のようなものだと割り切って書く。するとなんだか書けてしまう。
日記が書けないなど基本的にはあり得ないのだから。

「今日は求人サイトを見たが、どれもピンとこなかった。即断即決できる人はすごいと思う。」

「隣家の犬を見た。とても可愛かった。撫でたいけど私はシャイなのでそれができなかった。」

「近頃、庭の大葉の葉が虫に食われている。今日はその虫を見つけて潰した。殺生の嫌な感じはしなかった。殺生による良心の呵責は、相手の肉体の大きさに比例するのだろうか?」

「近所の水辺でフィールドレコーディングして、蛙の鳴き声を収集したいのだが、結局億劫がって実現できなかった。」

「キュウリとトマトの苗木を判別するのに三十秒もかかった。自分の目は節穴だと思う。けれども、最終的に違いがわかったので安心した。」

「去年庭に埋葬したカブトムシは土に還ったのだろうか。今はその辺りに紫陽花が綺麗に咲いている。もののあはれ感ず。紫陽花の花の色はphで決まるらしい。知らないことばかりで面白い。」

「スターバックスとケニーGは、なんだか関係があるらしい。でも調べるのも面倒くさい。今日やらなくていいことだから、先延ばしにすることにした。」

「今日は腹の調子が悪い。何が原因なのか。色々なことを記録しておけば法則がつかめるかもしれない。が、人生山あり谷ありなので、腹の具合だって同じではないか。結局細菌の気分次第だろうから、もう、放置することにした。ポジティブな思考停止。」

「スッパマイクロパンチョップって何やの、それ食えるんか。」

「昔、偶然知り合った韓国人は今、元気にしているだろうか。連絡してみたい気もするが、いまさら何を連絡すればいいものか。しかも英語でやりとりしていたはずだから、大変だ。英語などわからない。韓国語はもっとわからない。私は日本語が一番心地よい。」

などなど。リミッターさえ外せば、ずっと書ける。一度書き始めれば、そこから自ずと敷衍していくようだ。
恐らく、それを外すのも慣れが必要なのだと思う。やはりここでもディシプリン。
そしてそれをどこまで解放するのか、という問題もある。
リミッター解除と聞いて、私は某忍者漫画の「八門遁甲」を思い出してしまった(因みに私はジャンプ漫画しか読まない。ジャンプは単純に面白い)。
全開放したら、恐らく死ぬ。要は、使う時機と強度の問題。
私は極力平和な記事を書きたいと思う。
攻撃的なやつは避けたいところ。
攻撃性とか暴力性は、人である以上殆どの者が有しているだろう。問題はその発散の仕方=アウトプットだ。
下品なアウトプットは避けたい。ここにはリミッターを惜しみなくかける。
結局、自分のこころとからだの扱いは自分で学習していくしかない。
紙に書いて整理する。分析する。実験する。再検討してまた実行。
その日々の積み重ねが大事なのだろう。大事なことはカネがかからず、極めてシンプル。
などということをこれ以上垂れ流す必要もあるまい。
ということで今回はこれにて終了。
起承転結などいらない。きっと人生とはそういうものだ。
無為自然。


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