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「素朴なアートを生きる」ことについて。
名前の表記を変えてみました。
松井美和(みく) | 素朴なアートを生きる
松井美和……作曲するときの名前
みく……女性向け講座を受けた時のハンドルネーム(誕生日が3/9なので!)
素朴なアートを生きる……初めまして。このコンセプトについて↓で語ります。
素朴なアートとは
「素朴なアート」というワードが降りてきたのはつい先日のことだ。
ちょうど仕事で愛知の山奥を歩き回ってた頃だ。
そしてあとで気づいたのだけれど、あるセッションを受けてからちょうど2カ月後でもあった。
その頃、私は「自分の人生のコンセプトって何だろな」と思っていた。
ぼんやり考えていたところに降りてきた言葉だったので、ああなんだか素敵だなと思ったものだ。
素朴なアートってどんなものだろう?
それも、言葉が降りてくるのと同時にある程度理解できた。
やんわりと2つあるように感じる。
素朴なアート1
1つ目が、この詩。
この詩で私が描きたかったのは、この世はありのままですでにアートに満ちあふれている、ということだった。
人が手を加える必要はない。
そのままでいい。そのままですでにアート。
電車なんかは人が作ったものだが、なにもアートとしてこの世に生まれてきたわけではない。
それでも存在がアートなのだ。
もちろん、詩には書いてないが、アートと意図してこの世に生み出された作品もすでにアートである。
つまり、アートとは受け取り手の感じ方のお話だと思うのだ。
そう受け取れば、そう感じればそこにアートはあるのだ。
それを表現したいがために、アートの頭に「素朴な」が付いたのだと思う。
これは「ありのままの」「そのままの」くらいのニュアンスで取ってもらえるとありがたい。
――まあ、アートとして生み出された作品だけでなく、ありのままのあらゆる全てのもの・ことを私はアートと感じますよ、という意思表示でもあるかもしれない。
※スミマセン、降りてきた言葉なので、曖昧な言い方しかできませんが……私が考えたわけではないので、私が完全に完璧に理解することはかなわないのです。言葉は尽くしますが。
というわけで、素朴なアート1つ目は「受け取り手」としてのアート。
素朴なアート2
2つ目は「行動する主体」「行動した結果生み出されたもの」としてのアート。
今の私で言うなら、詩とか曲とかエッセイとか、そういう作品のお話。
さて少し話はずれるが、自分の人生を振り返ってみると、私は何でもやりたかった。
小さい頃から、お絵かきしたりお歌を歌ったりピアノを習ったり、絵本を読んだり本を読んだり、少し大きくなってくると、数字に興味を持ったり文章を書いたり作曲したりパソコンと戯れたり、携帯が登場したら写真を撮ったり……
まだまだある。枚挙にいとまがない。
どんなことでもやってみたかったんだ。
その反面、やりたいことが分散してしまい一つのことに打ち込めなかった。
確かに作曲や編曲はしているけれど、私と違ってストイックな人は真面目に勉強しているし、上を見ればきりがない。
私はどちらかというと、自分にできるだけのことをシンプルに、自分のペースで(早いときも遅いときもある)こなすタイプで、ストイックであろうとすると頑張らなければいけないが頑張りすぎてしまってバテてしまう、みたいな感じなわけである。
ハマるときはハマるがハマることによって体力を消耗して疲れてしまう、それと似ている。
それに……、一応日本史は専攻したし作曲も専攻したけれど、それだけでなくいろんなことをやってみたかったし、今もいろんなことをやってみたい。
「広く浅く」な傾向にあるのだと思う。
「広く浅く」を極めたわけではないのだけど。
一つのことに打ち込むパワーは確かにものすごい。
日本史学の特定の分野でテレビに出る人、初めて触る楽器でもちょっと触っただけですぐに弾けちゃう人、おむすびだけを追い続ける人、そこに自分を確立しているのは素晴らしいことだと思うのだ。
ただ、私がそれをやると疲れてしまうし、バテてしまうし、下手したら考えすぎて病んでしまう。
ブレーキの踏み方があんまりわかんないんである笑
そして、飽きっぽいかもしれない笑
今、私にとって最も「素朴なアート」に近い作品は、詩だ。
このマガジンのトップに固定した記事にも書いたけど、私は詩をほとんどメモか備忘録のように書いている。
つまり、めちゃめちゃストレスフリーに生み出される作品たちなのだ。
考えて・捻り出して書いてるみたいなことは一切ない。それこそほとんどが降りてくるような感じで生み出される。
あとサイトトップの「今日のメッセージ」も楽しく作成できた。
ChatGPTに絵を描いてもらって、言葉は私だ。
JavaScriptコードを初めて書いた。楽しく懐かしい。
――そう。
楽しくやりたい。ストレスフリーにやりたい。
頑張りたくないのだ。
ストイックなアートも確かに素晴らしいし、一つのことに打ち込んでこそ見えるものもあるだろう。
だけど、私がそれをやろうとすると、頑張りすぎて体調を崩したり、苦しくなってしまう。
そして、苦しみを元手にしてアートを生み出すのをやめたいのだ。
苦しみを元手にして生み出されたアートも確かに素晴らしいが、私はもうやりたくないのだ。
頑張らず、楽に生み出したいのだ。
だからこその「素朴な」アートなのだ。
素朴なアートもストイックなアートも、オタクが打ち込むアートも、どんなアートも素晴らしい。
その中で、私に向いてるアートが素朴なアートなのだ。
世の中のありのままの素朴な姿を、素朴にアートにしたいのだ。
といった感じで、「素朴なアート」については伝わっただろうか?
伝わってたら嬉しいな。
素朴なアートを「生きる」とは?
私がここ数年目指しているのは「本当の自分を生きる」ということだ。
最初目指し始めたときは意味も分かってなかったが、やっと少しずつ分かり始めている気がする。
今の私にとっては「抱え込んだ心の傷を癒し、自分の神様と繋がって生きる」ことであるように思う。
心の傷が認知の歪みや被害妄想を生んでしまうから、それらを手放して自分らしく生きましょうということでもある。
ここで神様登場しました。苦手な人スイマセン。
でもアートを語るうえでは外せないんです。
私は
アート≒神性≒愛
であるように感じるのです。
つまり、
アートを生きる≒愛を生きる≒神としての自分を生きる(そこまではいかないとしても、神とともに生きる)
ということだと思うのです。
この場合の神様は、前回のつぶやきで書きました。
これはいわゆるハイヤーセルフと呼ばれる方かもしれません(私はそう呼びませんが)。
※あ!途中からですます調になってしまった。神様が登場したからだと思って大目に見てください笑
「本当の自分を生きる」とは「神とともに生きる」ことだと思うのです。
神とともに生きるためには、自分が心からやりたいことを楽しくやるのが一番。
とすると、私にとっては
本当の自分を生きる≒神とともに生きる≒素朴なアートを生きる
なのだろうなきっと! フンス!
と勝手に思っているわけです。
降りてくるとき、私が詩を書いたり作曲したりするのではなく、神が私という道具を使ってそれらアートを生み出すのだという感覚もあります。
恐らくだからこそ、私の中でアートと神が結びつくのだと思います。
まあもっとも、音楽も美術も中世のヨーロッパでは神に捧げるのがメインでした。日本では能もそう。
そこからだんだんアートや芸術が人間のものになっていったんだなあ、ということを思うと、昔に回帰することになるのかしらん?
それに神道では、ありとあらゆるところに神が満ち満ちていると言われます。
それは、私が先ほど述べた「この世はありのままですでにアートに満ちあふれている」こととも通じます。
やっぱり神とアートは通じてる気がしますね。
――それでも、「素朴なアートを生きる」という言葉を完全に理解できているわけではない。
まあゆるゆる、おいおい、頑張らずにやっていけば、少しずつわかってくることもあるでしょう!
といったところで笑点お開き。
またいずれお会いしましょう。
私は今までと変わらず、頑張らず、素朴に素朴なアートをやってきます。
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