翻訳家礼賛
予報通り、朝からの雨。
外に出かけることはあきらめて、机の上に読みかけの本を並べます。
私の読書の好みは“並行読み”で、ちょっと退屈、今はこういのがいい、何かわくわくするものを、などとその時々の気分によって、色々な本を開いては閉じ、数冊の本を同時進行で読んでいます。
ジャンルも、軽いもの、頭を使うもの、フィクション、ドキュメントとばらばらですし、作者の国籍も多種多様、本の世界では五大陸に上陸し、多くの国の人々と出会いました。
そんなことが可能なのも、この国が世界一の翻訳大国だから。
日本くらい、自国語の翻訳で海外の本が読める国はないでしょう。
今、世界中で毎日どのくらいの本が出版されているかは知り得ませんが、それらのうちのいくらかが翻訳され、日本語で読めるというのは、私にとってありがたく幸福なこと。
ここ数年の間でも、自分がどんな国の本を手にしてきたかを振り返ると、すべて合わせて世界地図の半分は完成させられるのではという具合です。
もし私がそんな本たちに原語で出会っていたとしたら、読破できるのはおそらく数冊のはず。
英語かフランス語なら頑張ればどうにか、イタリア語とスペイン語も辞書を繰り膨大な時間をかければ、短編なら読めるかもしれません。
けれども他はお話にもなりませんし、一文字たりとも読み取れず、ただの一音も発声できない言語すら存在します。
「добры дзень」
「복용」
「السلا َم عل َيك ُم」
「สวัสดีครับ」
「안녕하십니까」
これはすべて「こんにちは」という簡単なあいさつであり、順にベラルーシ語、ベルベル語、アラビア語、タイ語、韓国語の表記です。
眺めていると絵画的で美しいとは思うものの、そのままではこれらの言語の本は私にとってはオブジェでしかなく、何が記されているかは、一生知ることもできません。
そんな羽目に陥らず、表紙を眺める以外の愉しみを得られているのは、ひとえにそれが日本語に訳されているゆえです。
外国語で書かれたものを、時には原作を凌駕するのではと感じさせる、名訳をつけてくれる方々がいらっしゃればこそ。
原文を直訳でなくこなれた日本語に変換するのも大変でしょうし、小説や詩といった分野などでは、原文のイメージ、韻、言葉遊びなどを伝えるのに、さぞかし苦心があるのではと想像します。
『シェイクスピア全集』
『フィリップ・マーロウ・シリーズ』
『星の王子さま』
『ドストエフスキー全集』
などは、どれもその人気ぶりに相応しく時代ごとに様々な訳がつけられ、各バージョンごとの読み比べだって可能です。
これが同じ物語かと思えるくらい感触が異なるものからは、翻訳者の方の仕事ぶり、個性や信念などが透けて見えて、楽しい限り。
今あげた作品たちに関して、私の好みを言うならば、『シェイクスピア』は松岡和子さん、『マーロウ』は村上春樹さん、『星の王子さま』は内藤濯さん、『ドストエフスキー』は亀山郁夫さん訳で読むのが最高です。
松岡さんの『シェイクスピア』はキャラクターへの印象や好感度さえ変化させますし、『マーロウ』は村上さんの無駄のなさや乾きぶりが良く、内藤さんでない『星の王子さま』はもはや違和感があり、『ドストエフスキー』で亀山さんは物語に立体感とかつてない面白さを与えてくださいました。
もちろん人それぞれに異なる意見があるでしょうし、これは、クラシックの同じ一曲のうちから、自分のお気に入りの演奏を見つける、ということに似ているかもしれません。
文章を読むことも、たとえ音読はせずとも内側でリズムやメロディーに乗せて読み進んでいるのですから、あながちはずれではない気がします。
そうすると、翻訳者のリズム感が自分のそれと合致した時、読んでいて心地良く、無理なく文章を辿っていける、ということが起こるのかもしれません。
過去に途中で挫折した外国文学が、別の訳だと最後まで難なく読めてしまった、という経験が私にもありますから。
「同時通訳者の頭の中はどうなっているのかと思う。自分にはとても真似ができない」
そんな風に書いていた翻訳家の方がいましたが、私にとっては、多言語に通じ、創造性と忍耐力を持ったそれら翻訳者の方々もまた、感謝を捧げたい特別な存在です。
だってそうでなければ、こんな雨降りの日曜日に、アイスランドのミステリーに息を呑み、スロヴァキアの歴史物語に焦燥を感じ、インドの抒情詩に思いを馳せる、という愉悦は決して得られなかったでしょうから。
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