分析のマサ

ほぼ毎日、ミッドナイト競輪の予想をしています

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最近の記事

2023年の競輪成績

2023年WINTICKETでの年間回収率は66%でした ただこれは毎年恒例のGP30万円勝負の影響を大きく受けるためGPで負けてしまえば大きく回収率が下がるのは致し方ないかと(通常の2カ月分の資金を1Rで使うので) ちなみにGPで大きく当てた2021年は年間回収率299%でした そこで1年間ほぼ毎日裏買いしたミッドナイトだけの回収率を出すと79% よくもなければ悪くもないという数字ですが1日あたりの負け額は1000円弱と大の大人が夜の3時間楽しんだ対価と考えれば安く済

    • なぜ「マサ予想」は100円6点買いなのか?

      このところビシッと大きい配当を当てられていないので、皆様からお叱りを受けるのは致し方ないことだと思っています。 そんな状況の中で「マサ予想」とは何なのか?について改めて説明させて頂ければ「公表した買い目は豆券といえども必ず身銭を切って購入している」ということだけです。 「当てたいだけ」であればこんな展開もある、あんな展開もあると言ってガミも含めて1レースあたり10~20点買えばおそらくヤキトリは回避できる。しかし、それを真似てお客さんがすべて購入するとなると100円の均等

      ¥200
      • 旅打ちのマサ① 2022高知競輪

        最終レースで大量落車があり、救急車のサイレンを聞きながら雨のオケラ街道をトボトボ歩いた3年前の9月。道すがらにかかってきた電話の内容は、自業自得とはいえ、マサの心に今でも沁みる、人生の「一つの区切り」をつけるものだった。 その時以来の高知500バンク。乾ききったはずの「心のかさぶた」が少しはがれるような感覚になりながらも路面電車に乗り「日本三大がっかり」の1つ?はりまや橋で乗り換え「グランド通駅」に降り立った。 バンクの内側にある陸上トラックに寄せて名付けられているはずな

        • マサの競輪デビュー(仕事編)

          泥まみれ汗まみれで、走り、ぶつかり続けたほとんど部活だけの4年間の大学生活を終え、マサが就職したのはテレビの制作会社。 4月1日に入社式を終え、2日から配属されたのはゴールデンタイムのバラエティ番組だった。 週イチの構成会議は12時間以上カンヅメ、収録前は準備で2、3日連続の徹夜は当たり前、編集作業に至っては3、4日ぶっ通しで編集室にこもるという今では信じられないほどの長時間労働。そのほかにロケの仕込みや視聴者対応などで、ほとんど家に帰れない日が続き、初めて休みがもらえたの

          旅打ちを終えて

          休みをもらっていろいろ思うことがありまして。 やはり本場開催に行くべきだなと。 でも、まず本場開催が少ない。あっても送迎バスの本数が少ない。併売が終われば売店も閉店。 わざわざ本場行ったのに土産もない。 それじゃあかんだろ。 ネットで売れて施行者もホクホクなのはわかるけど、こんなんじゃ新規のファンは増やせない。 客がいることでの選手の気合い。 その一方で、ダメな客のヤジ。 当たり外れ以前に「なんか競輪場に行ったら面白いな」と思わせる空間を作ってなんぼやろう。と改めて思い

          旅打ちを終えて

          競輪GP連敗の始まり

          去年30万円負けたからというわけではないですが、マサとGPの因縁は大学最後の年に衝撃を受けた時から始まっているという話を書きます。 大学3年の冬に入れ替え戦で敗れ、大学最後のシーズンは2部リーグでの戦い。 そこで何とか優勝を果たし、1部との入れ替え戦の切符を手に入れはしたものの、直前の練習で足の指を骨折。頭を丸め、痛み止めを何本もぶち込んで、背水の陣で挑んだ大学最後の試合は惨敗だった。 1部リーグに引き上げられなかったことを後輩たちに謝罪しながら涙割りの焼酎を飲んだ翌日か

          競輪GP連敗の始まり

          マサの競輪デビュー②

          1992年春、東京で一人暮らしを始めたマサ。 関東近郊には、立川、京王閣、川崎、花月園(ここのセンマイは旨かった)、小田原、大宮、西武園、千葉、松戸、取手…と数多くの競輪場があり、いつ行こうか、いつ行こうかと心は逸っていたのだが、当時はまだ18歳、さらにバイトは少々していたものの親の脛をかじる大学生。そして、もっとも大きな障壁は、体育会に入部してしまったことだった。 朝から晩まで走りっぱなし、鍛えっぱなしで4畳半一間の下宿に帰れば、ただ寝るだけ。そんな生活が冬のシーズ

          マサの競輪デビュー②

          マサの競輪デビュー

          高校3年生の夏休み。 小学校時代からの腐れ縁の友人が突然、「おう、マサ。高校やめるわ」と言ってきた。 長身でひょろっとした風貌から「サンマ」とのあだ名がついていた同級生。 特に成績が悪いわけでもなく、出席日数が足らないわけでもない。田舎の公立高校だから学費が苦しいわけでもなかったはず。あと半年ばかり通学すれば無事卒業という時期の話だった。 理由を聞くと、 「大学進学するつもりもないし、このまま普通科を卒業しても意味がない」 「いま、プログラミングの勉強をしていて、

          マサの競輪デビュー

          予想屋ではなくテレビ屋として

          たまには当たらない予想屋という立場を離れて古いテレビ屋として書いてみます。 リアリティショーってなんだろうと。 どうやら既存のメディアに規制が多くて、本音の部分が描けてない。だからこそ新興メディアが若い視聴者にウケるものとして打ち出しているコンテンツになっているらしい。 でも違うだろ、と。 一昔前は、ドラマで悪女役をやってる女優さんが街中で「あんた酷いね、大嫌い」と言われて逆にいい演技ができてると誇れた時代があった。 これは作り物です。と、断った上でお客さんにとこと

          予想屋ではなくテレビ屋として

          マサのギャンブルデビュー③

          「こんなもん八百長やろ」 大工一家の母方の叔父が騒ぎ出した。 マサ高校2年の年末のこと、この年は親戚一同が集まって餅つきながらの有馬記念テレビ観戦。 ファン投票1位で出走するオグリキャップを切るかどうかでオッズは割れていた。 地方競馬の笠松から中央競馬へ。一躍スターダムにのし上がったオグリキャップ。 世代的にハイセイコーブームは知らない田舎育ちのマサにとっては、オグリこそが成り上がりの代名詞のような存在。ロマンを感じる馬だった。 ただこの年の秋のオグリは惨敗続き。 引退

          マサのギャンブルデビュー③

          マサのギャンブルデビュー②

          中学生のころ、実家近くに突如オープンした理髪店。 今では珍しくないカットのみ1200円ぐらいの設定。 当時は、組合の協定価格か何かでどの店も同じ料金だった中、非常に安く珍しい存在だった 生まれ育ったの街は、決まった店で、決まったものを、先祖代々買うという文化。それは理髪店も同じだった。 たとえ安価であっても、すぐに多くの客が押し寄せるという状況にはならなかったが、決して裕福ではない育ちのマサをはじめ、近隣の住民たちの何人かはその店を利用していた。 その店は、当時40代だっ

          マサのギャンブルデビュー②

          マサのギャンブルデビュー

          「④来たやん。お金は?」 「あほ。もう1個当たってへんから一銭にも  ならんわ」 中2の冬、マサが初めてギャンブルで負けた日の父との会話。 父はごくたまにパチンコ屋に行くぐらいでギャンブルはほとんどしなかったが、なぜか、ダービーと天皇賞、そして有馬記念だけは、祇園の場外馬券売り場まで出向き特券数枚を買い続けていた。 1987年の年の瀬、いつものように馬券を買いに行く直前、初めて父が「おい、お前の好きな数字2つ言ってみろ」と。 それまで父の馬券が当たったところを見たことが

          マサのギャンブルデビュー