マサの競輪デビュー②
1992年春、東京で一人暮らしを始めたマサ。
関東近郊には、立川、京王閣、川崎、花月園(ここのセンマイは旨かった)、小田原、大宮、西武園、千葉、松戸、取手…と数多くの競輪場があり、いつ行こうか、いつ行こうかと心は逸っていたのだが、当時はまだ18歳、さらにバイトは少々していたものの親の脛をかじる大学生。そして、もっとも大きな障壁は、体育会に入部してしまったことだった。
朝から晩まで走りっぱなし、鍛えっぱなしで4畳半一間の下宿に帰れば、ただ寝るだけ。そんな生活が冬のシーズンオフまで続き、競輪場へ行く機会を逃し続けていた。
マサが所属していた部は1部リーグには所属していたものの、上位チームとの力の差は歴然。毎年、2部との入れ替え戦で薄氷の勝利をおさめ、なんとか1部に留まっていた。
ただ、この年だけはリーグ戦で2勝し、入れ替え戦を回避。冬のシーズンオフが例年より長くなる幸運に恵まれた。
そうであればと向かった初の競輪場は立川。たしかS級シリーズ開催だったと思う。
マサより40歳、下手すりゃ50歳年配の、それもなぜかみんな示し合わせたかのようにグレーか黒のジャンパー姿で同じような帽子をかぶる大勢の客。
そんな客とともに今では考えられないほどすし詰めになった無料バスに乗り、たどり着いた競輪場には、これまでの人生で見たことがないものばかりが広がっていた。
今のようにマークシートはなく、穴場で口頭で買い目を言って車券を購入する時代だったが、なぜかそこで大声でもめているおっさん。
今日はこんなに儲けたと札束を見せ、情報が入っているから次のレース教えてやろうかとすり寄ってくるコーチ屋。
頭鉄板だ、穴だ、特報だ、と外し続けていても、今度こそは自信があるかのように大声を張り上げる予想屋。
客は客で、レースが始まれば「今だ!」「まだまだ!」だの「退かせちまえ!」だの「若いんだからしっかり行ってしっかり垂れろ」だの、自分の車券に都合がいい指示を好き放題言って、終わってみれば「バカ」だの「間抜け」だの、「下手クソ」だの罵声を浴びせる。
ただ、そんな大騒ぎした客は外したのかと思いきや「代用で取った」と喜び勇んで払い戻し窓口に並んでいる。
もちろん女性客はほとんどおらず、若めの女性を見かければ、夜のご商売風で、隣には必ず「その筋」のお方。そんな、平日の昼間から何で生計を立てているか不明な人たちが熱狂する光景に圧倒されたマサ。
腹が減って、何かを食べようと思い、奥の方にある売店に向かうと、近くには無料のドリンクスタンド。そこからは「メロンジュース」と名の付いた緑色した甘すぎる液体が出てきた。
ようやくたどり着いた売店の品書きには「モツ1本100円」の文字。
関西人のマサはモツと言えばモツ焼と思い、売店のお姉さんに、「1つください」というと「黒?白?」と尋ね返され、よくわからないまま「じゃ両方」と言って出てきたものは、これまで見たことのない物体だった。
一方、レースに目を転じれば、当時はまだ車番連勝式の車券は発売しておらず、ほぼすべての客が買っているのは枠単。本命決着なら100円台も当たり前で万券となれば、かなり無理筋なゾロ目だけというオッズも少なくなかった。
また、いまでいうメロンは黄色のユニフォーム。「普通競走」なる「トップ引き」がいる今から考えれば、どこが「普通」なんだかわからないレースも行われていた。
そんなこんなで、どんな選手が出ていて、どんな車券を買ったかなど、すべてを覚えていないが何レースか賭けたマサ。
当時住んでいた中野までの電車賃だけを財布に残し、駅までの住宅街のど真ん中を突っ切るオケラ街道を歩いたことだけが記憶に残っている。
これがマサの初競輪場の記憶。
その後も、立川をはじめ、川崎、西武園に今はなき花月園など各場を回ったが、レースそのもの、車券の勝ち負けよりも、そんなある意味「どうしようもない空気感」にどっぷりはまっていった。
そんなマサが、大学生活最後の冬。いまでも記憶に残るレースに出会う。
これは後日、改めて書きます。
※法律では未成年および大学生が車券を購入することは禁じられていましたが、時効ということでお願いします