競輪GP連敗の始まり
去年30万円負けたからというわけではないですが、マサとGPの因縁は大学最後の年に衝撃を受けた時から始まっているという話を書きます。
大学3年の冬に入れ替え戦で敗れ、大学最後のシーズンは2部リーグでの戦い。
そこで何とか優勝を果たし、1部との入れ替え戦の切符を手に入れはしたものの、直前の練習で足の指を骨折。頭を丸め、痛み止めを何本もぶち込んで、背水の陣で挑んだ大学最後の試合は惨敗だった。
1部リーグに引き上げられなかったことを後輩たちに謝罪しながら涙割りの焼酎を飲んだ翌日からは卒論に追われ、ようやく一段落ついたのは12月30日。マサは当然のごとく立川競輪場に向かっていた。
あの狭い場内に4万人もの観客。一旦、金網越しで観戦しようものなら、もう車券を買いに行けないほどのすし詰めぶりで、今の競輪場とは隔世の感がありすぎる光景がそこには広がっていた。
この年のGPの売り上げは80億円超。施行者あいさつで「青木~!」と声援を飛ばされた立川市長もまんざらでもない様子だった。
前座は阿佐田哲也杯決勝。S級シリーズの決勝とは思えないほどの声援とヤジが飛び交うレースで1着を取ったのは十文字貴信。この年にデビューし、S級まで一気に上り詰めての初優勝。そして翌年にはオリンピックのメダリストとなる新進気鋭の選手だった。
この年から発売した車番連勝単式たしか⑥-③ で、「現役時代の背番号をなぜ買ってない」と自問自答したような気がする。
そんなこんなで、ついに競輪GPの脚見せが始まった。当時の輪界のトップ選手「F1先行」吉岡稔真、今や「レジェンド」の神山雄一郎をはじめとする9選手が、一種異様な空気のなかで選手紹介を行っていた。
レースは最終H中団からかまし出た神山に後方からまくる吉岡。直線わずかに届いた吉岡の優勝で2車単①-⑨の決着。逃げが決まりにくいGPを象徴するかのようなレース。もちろんマサは車券を外したが、全員が1億円を取ってやるという気迫が伝わるレースだった。
このレースで惜しくも2着となった神山は、この後4年連続のGP2着。まだ現役だから絶対ないとは言えないが、GPだけは優勝できずに選手生活を終えることになると思う。
そして3着は「鬼脚」井上茂徳。GP最多の優勝3回、また「世界の中野」の後ろからG1をかっさらい続けた選手だが、この年以降GP出場はない。
さらに、8着に終わった「怪物」滝沢正光もまた、この年を最後にGP出場はなくなった。
阿佐田哲也杯もGPも一つの時代の終わりと始まりを感じさせるレース。そして神山にとっては2着の因縁の始まり。また、翌年のGPは売上100億円超とピークを迎える競輪界とその後の凋落。多くの転換点があった1995年のGP。
そして、マサにとってもこれ以降のGPは冬のボーナスの大半をつぎ込み、10年以上も勝てないというジンクスを作ってしまうこととなった。