読書ノート「未来は決まっており、自分の意志など存在しない。」(著:妹尾武治 光文社新書)
1.はじめに
本書は2021年3月30日に出版されました。著者は知覚心理学の研究者です。本書の内容と主張はタイトルに集約されているとおりです。著者はこれを心理学的決定論と呼び本書の副題にもなっています。本書のはじめに、この本は著者の個人的思想を書きたいように書いたトンデモ本であり科学的に全く正しくないという趣旨のことが書かれています。ただし反科学的なことが書いてあるというものではなく、科学的知見を前提としつつ科学では探り切れない原理を考えてみようということだと思います。
私がいくつかの読書ノート等で書き散らしている「楽しい形而上学」も本書の著者と同じようなスタンスで書いているものです。巻末の謝辞によると本書は著者の持ち込み企画だそうです。楽しい形而上学だけで一冊の本が書けるなんて羨ましい限りです。
私の読書ノートでは取り上げる本の概要を書いてから雑感を書くというスタイルが多いです。しかし本書の要約は完璧なまでにタイトルに現れているので今回は章ごとのトピックについて本書の内容を軽くご紹介したうえで私の個人的感想を並行して書いていこうと思います。
なお本題に入る前に本書のスタイルにならって私の個人的思想をあらかじめ書いておきます。「未来は不確定。また存在しないのは意思ではなく『自分』の方である。」
2.心理学的決定論
本書ではまず意志に関する簡単な疑いとして無限後退の問題を取り上げています。自己をコントロールする意思があるとします。例えば右手を上げようと意志します。しかし意志がすべてをコントロールしているなら右手を上げようとするための意志を持つにはそれを意志するための意志を持たなければならなくなります。その意志するための意志を持つにはそれを意志する意志を...というように無限に後退してしまいます。
また右手を上げずに右手を上げる意志だけを持つことは可能かという問題を取り上げます。結論として右手を上げたときの右手を上げる意志と右手を上げなかったときの右手を上げる意志の同一性を証明することは難しいといいます。
ここで意志と意識の違いが定義されます。意志とは行動を自分自身で制御するために脳内に生ずる自分自身の意図とします。意識とは行動、思考、認知、感情、記憶などを制御する自分自身の脳内の広範な活動とします。意識の定義はかなりアバウトですがなぜ意識がありどのように意思を生むのかは分かっておらず解明する方法論さえないといいます。
次にリベットの実験が紹介されます。頭頂部に電極を付けた被験者に好きな時に右手を上げてもらうとともに、オシロスコープを使って右手を上げようと思った時刻を正確に報告してもらいます。電極で運動をつかさどる脳の準備電位がいつ生じたかも測ります。その結果、準備電位は手首が動き始める550ミリ秒前から出ていることが分かりました。これ自体は不思議ではありません。一方、意志を持ったのは手首が動き始める200ミリ秒前でした。まず脳が無意識に活動し始め、次に手を動かす意志が形成され、その後に手が動くという順番になっているというのです。実験結果についてリベット自身は手を動かす自由意思は否定したものの動かさない選択はできるとしましたが実験結果の解釈については論争があり結論は出ていないといいます。
またすべての情報を持つ存在にとっては未来は確定しているというラプラスの魔という考え方を紹介します(数学者ラプラスが提唱した考えであるためその名がついています。)。
ボールを投げたとき、投げた人の腕力、投げ方や風向きなどの情報があれば落下地点をかなり正確に予想できます。天気予報も昔は当たらなかったが近年はかなり当たるようになったといます。著者は、これらと同様に人の感情や行動もその人を取り巻く環境という変数を網羅して入力すれば正確に予想できるのではないかといいます。ただし厳密には予想精度が高いことと未来の事前確定は同一ではないし因果関係でもないとも言っています。
ここで著者は人生ゲームの話をします。人生ゲームの結果はルーレットの目という事前に決まっていた偶然に左右されます。株を売る売らないなどの選択はありますがゲームを支配しているのは意思でなく偶然だといいます。その意味で人生ゲームの行程は事前に決まっていたと言えるといいます。
現実においても我々は環境との相互作用によりオートマティックに行動しているだけであり自由があると思うのは情報不足ゆえの錯覚だといいます。これを心理学的決定論と呼ぶそうです。なおこのようなハードな決定論だけではく、環境の相互作用として生じる必然的な結果と避けられない宿命とには差があるとするソフトな決定論もあると言及されています。
恋愛も脳が勝手に決めているといいます。下條教授の実験が紹介されます。眼球運動の計測装置を付けた被験者にモニターに表示された左右の女性のどちらが好みか選択してもらいます。好みの選択の方に視線が偏ることが分かるのですが選択の数秒前から有意に偏りがみられるといいます。さらに一方の女性に強制的に視線を向けさせるとそちらを選ぶ確率が上がったそうです。
次にアイオワギャンブリング課題という実験が紹介されます。4つの山からカードを引いてカードに書いてある金額の賞金又は罰金を受けるというものですが実は被験者に分からないようにハイリスクのカードのペアとローリスクのカードのペアに分けてあります。カードを何回も引いてもらうと被験者はしだいに様子が分かってきて皆いずれローリスクのペアの側からしかカードを引かなくなります。被験者の認識では50回を超えると勘がはたらきはじめ80回くらいで意識的な行動が形成されているのですが実は40回あたりでハイリスクの山からカードを引く行動が有意に減っているのです。さらに手から出ている精神的発汗を調べたところ20回以下の段階でハイリスクの山からカードを引くときに発汗が多くなっていました。意識されるより前に行動が変わっており行動が変わる前に身体が緊張していたのです。
著者は意識はどこからあるのかという問題を考えます。多くの人は枯葉が落ちるときに意志は感じられないでしょう。しかし猫の行動を見ると意志を感じられるはずです。ではナメクジはどうか。そこには人間の恣意的な線引きがあります。
ここで物理の法則を考えます。ひとまず物理の法則が世界を統べているとします。アインシュタインが相対性理論を考える以前、ビックバンから光速度は不変だったはずです。では意志はどうか。意志にも何らかの法則がはたらいているとします。人間が恣意的に線引きする以前、ビックバンから意志に関する法則は不変のはずだといいます。著者は人間だけ、脳だけが意識や意志を持つと考えるべきではなく意識は万物にあるといいます。
犯罪と自由意思の関係についても考察されます。何度も薬物事件で逮捕されている某バラエティタレント(本書では実名)を引き合いに出し、脳が暴走してやめたくてもやめられないのだとします。そしていろいろな研究を引き合いに出して薬物に限らず犯罪とはおよそ脳の暴走であって本人がやめたくてもやめられない、自由意思などないといいます。
ここからは私の個人的感想になります。私としても意識や意志を人間中心的に考えるのは不合理であり物理法則と無関係に意志があるとは思いません。意志を生じさせる法則がビックバンから不変に存在するはずという発想にも賛同します。
その上で著者がラプラスの魔を引き合いに出しているのは偶然性とは情報の欠如であり完全な情報があればすべてが予測できるとすれば宇宙の全情報を知れば過去・現在・未来のすべてを見通せるはずであり、逆に言えばすべてはあらかじめ決まっているという物理的(あるは唯物論的)決定論を前提にしており、その上で心理学や脳科学では自由意思が脳内に見つけられないから結局、心理現象も物理現象と同じようにすべてが事前決定されていると考えているのではないかと思われます。
物理的決定論自体にも私は賛成しませんがその話は後にしてここでは心理学なり脳科学の研究成果が自由意思の不存在を証明しているのかを考えたいと思います。
まず好みの女性の選択に関する実験について考えます。ここではっきりしておきたいのは誰かや何かを好きになるのに意志は関係ないということです。恋に落ちるという表現があります。好き嫌いというのは自由意思で決定するものではないことは普通の感覚で分かると思います。
好き嫌いは何かの感覚や刺激の提示とそれに随伴して生じた感情の積み重ねで決まるし場合によっては一撃で強烈な好みが形成されることもあるでしょう。自分の人生経験を振り返れば大抵の人は思い当たることがあるはずです。したがって本書で紹介される下條教授の実験結果は特に不思議なものではないと思います。
問題は、好みの形成に関する実験結果と常識的に自由意思でやっていると思われる行動に関する実験結果を並べたとき脳内の状態はどうやら両者が同じような仕組みで動いているらしいということです。
まず自由意思が存在してそれが行動を決めると考える場合、この実験結果は一見不思議に感じられます。しかしその不思議さは一個の脳が単純で単一な自分の存在と同一であるという思い込みから来ているのではないでしょうか。
例えば会社組織を考えます。会社の意思決定は役員会で決まるとします。しかし役員会以前に多くの社員が働いて情報調査・分析を行い、選択肢を考案して得失をまとめた資料を整理して管理職が決済したものが役員会に上がって初めて意思決定が行われるのです。意思決定が行われる前に会社を観察すれば事前に様々な活動がみられるはずですがそれを不思議と思う人はいないでしょう。そして役員は縁の下で働く社員たちの苦労をリアルタイムで把握していたりはしないのです。
このように考えれば意思決定以前に脳が無意識に活動しているのは当たり前であり、そうだからといって自由意思が幻想だという結論に至るのは気が早すぎるというものです。
さらにアイオワギャンブリング課題の不思議さについては身体と自己と脳の単純な同一性が成り立つかという問題に置き換えることが可能だと思います。引き続き会社の比喩でいうと本社と支社の関係が脳と身体の関係にも当てはまるかもしれません。ただしこの場合、支社としての身体の自律性は会社の支社よりかなり小さいでしょう。支社が本社の指示に従って動く場合でも動いている途中で逐一リアルタイムに役員会に報告したりしませんよね。またトラブルが生じたとき本社に相談するとして本社の側でもすべての案件を役員会に諮るわけではなく担当者限りで指示をしたりすることもあります。このように考えれば表層意識に問題が把握される前に身体が反応しても何ら不思議ではないということになります。
環境と一個人の相互作用をいうとき、一個人の方は単純な統一体で環境の方も一体として一個人に作用しているようなイメージを持ってしまいがちです。しかし人間個人も脳の各部位と身体各部位が複雑に相互作用する複雑系です。さらに環境の方だって単純な統一体であるはずもなく様々な現象が様々な経路で生物個体に影響します。環境の一要素と脳部位-身体部位連関の一部門が関わった相互作用が環境の別の要素を経て同じ個体の別の脳部位-身体部位連関に別の作用を及ぼすというような関係だってあり得るのです。
したがって脳の無意識活動や身体反応が主観的意思決定に先行することをもって自由意思の不存在が明らかになるという見方自体に納得できないといわざるを得ません。これらの実験は脳内で生じた意識的作用が途中段階で行動を変化させている可能性を否定したことにならないし、その意識作用を自由意思とみなしても差し支えないだろうと思うからです。
なおここで自由意志とみなせるような脳の作用があったとしてそれを所有する主体としての自分が存在することを当然視しているわけではありません。このことは後で取り上げたいと思います。
3.AIと意識
哲学的にはAIは意識を持てるかという問題があります。著者は、AIは我々が存命中にも意識を持つだろうといいます。
将棋AIが最高位の棋士に勝っています。ここで著者はAIはブラックボックスでありチャンピオンに勝つAIは作れるがどうやって勝っているのかは分からないといいます。著者はAIのブラックボックスは脳と相似形だといいます。ニューロンのはたらきは分かってもそれが集まった時に生じる心がどのように生まれるのか分からないのです。チャーマーズという哲学者は意識のハードプロブレムという表現を用いて、脳科学が進展しても私とは何か、意識とは何か、脳というモノから意識が生まれるのはなぜかといった問題については何も分かっていないと指摘しているそうです。
またクオリアという概念があります。私が赤色を見たときその赤は他人が見ている赤と同じでしょうか。赤の赤さは自分にしかアクセスできない感覚です。このようなものをクオリアと呼びます。クオリアは言語や数値に置き換えることができません。AIはクオリアを持てるでしょうか(なお哲学的には意識のハードプロブレムやクオリアを疑似問題として片付ける立場もありうるでしょう。)。
チューリングテストという概念が紹介されます。数学者チューリングが1950年に提唱したもので相手がコンピューターか人間かわからない状況で現代ならチャットのようなテキストベースのやりとりをして人間側が相手は人間なのかコンピューターなのか区別がつかないならコンピューターに心があるとしてよいというものです。著者はチューリングテストに合格するAIが出てくるのは時間の問題だといいます。
著者はAIと人間の判断は膨大な情報が与えられ、その帰結として1つの行動が選択されるという相似形を持つといいます。AIのブラックボックスと人間の自由意志は同じだといいます。膨大な情報から結論が一意に導かれるがその過程が理解できないから自由意志という幻想が生まれるといいます。そして哲学者ライプニッツの著書「モナドロジー」から一文を引用します。
ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体を同じ割合で拡大し、風車小屋の中にでも入るようにその中に入ってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分が互いに動かしあっている姿だけで、表象について説明するに足るものは決して発見できない。
ここからは私の個人的感想です。人間の意識がどう生ずるかは分からないが脳とAIは情報処理という点では基本的に同じ仕組みだから物理主義に立てばAIに意識が発生しない理由がないという見方もできますし、現時点でそれを否定する材料もないでしょう。AIについては私も良くわからないのでこの話はこれで終わりたいと思います。
他方、物理主義に立ちながら自由意志やクオリアは脳の情報処理や行動に何の影響も与えない幻影だと断ずるなら意識というのは物理法則によって発生しながらそれ自体は何の物理作用もなしえない袋小路だということになります。脳が幻影を見るとき物理主義に立てば意識現象として脳の局所に物理的変化が生じるはずです。そうであれば物理作用の袋小路にはなり得ず脳内外の他の物理現象に連鎖的に作用すると考える方が自然ではないかと思います。そうすると自由意志とみなせる現象が起こる場合と起こらない場合で行動の選択結果が違う可能性があるはずです。
結局、自由意志の問題は物理的決定論が正しいのかどうかという問題に帰着するのです。すべてが事前決定されているなら自由意思は幻想でしかありえません。実はこれは科学の問題ではなく形而上学の問題なのです。認知心理学の知見は著者の形而上学の傍証とされてはいますが科学的手法で形而上学を立証することはできないと思います。
ここで申し上げたいのは物理主義に立って自由意志を幻想といってしまうとやはり局所的物理現象でしかないはずの幻影としての自由意思が隣接する他の物理現象に作用している可能性を実証的検証を何ら行わずに否定するという矛盾に陥るのではないかということです。これは後で触れますが私は物理主義とハードな決定論は両立しないのではないかと思います。
4.唯識
外界ないし物理世界があるとしてそれと我々が知覚する世界は異なるといいます。知覚世界は物理世界のごく一部を五感という窓を通して見ているだけです。また錯視現象が示すように五感で切り取った限られた範囲に限っても外界をありのままに見ているのでもありません。ここで哲学者スピノザによる神の定義が引用されます。
神とは、絶対に無限なる実有、言い換えれば各々が、永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体
著者はこのような意味でこの世は神様のVRゲームなのではないかといいます。生物ごとに異なる五感のあり方はゲームの初期設定のようなものだといいます。また同じ人間でも感じ方は個々人で異なるといいます。物理世界が知覚世界と別に本当に存在しているかは我々には分からないといいます。
ここで仏教の唯識思想の話になります。仏教では一切は空とします。しかし唯一自分の心だけが存在するとし、これが唯識だといいます。
著者は唯識は二つの言葉で説明できるといいます。「唯識無境」と「唯識所変」です。唯識無境とは外界にものなど存在しない、外界になにもないという考えだといいます(なお「境」とは知覚や認識の対象を指す仏教用語です。)。唯識所変とはこの世はすべて阿頼耶識から作られたものという考えです。
阿頼耶識とは唯識思想の八番目の識です。物を見るとき見られている物を相分、見ている視覚を見分と呼びます。相分も見分も自分体と呼ばれる心の主軸から発生しておりこれらすべては阿頼耶識が生ませているのです。つまり心が心を見ているのです。
哲学者ラッセルは「世界は5分前に始まった」という命題を論理的には誰も否定できないと述べました。全ての過去が仕組まれた状態で私の脳にセットされて5分前に世界が始まったのかもしれないのです。
世界のすべては自分自身が決めている、世界そのものが自分の阿頼耶識によって生み出されているなら仏教的には世界は事前に決定しているといえると著者いいます。さらに進んで著者は幸福も自分の脳が決めるといいます。ブッダは快楽の追求は苦しみのもとだと主張しており、脳が世界を構成し、我々の意識がこの世のすべてであるからこそ客観的な事実や物理的な構成には幸せは規定されないといいます。
ここからは私の個人的感想になります。私の仏教の理解では一切皆空とは諸法と呼ばれる諸々の物理的または心理的存在ないし現象が実体を欠く空性だというもので諸法が存在していないという話ではないです。唯識についても一般的な解説書でも唯心論とは違うという説明がされているのではないかと思います。
また一切皆空という場合、当然、識も空なのです。したがって個人の個我が持つ阿頼耶識だけが確実に存在するという考え方にはなりません。
さらに仏教の基本は諸法無我です。自我と呼ばれるものに実体は無いということです。したがって阿頼耶識が個々人に別個に実体として備わっているというものではないのだろうと理解しています。
仏教では諸法という用語が存在の意味でも現象という意味でも使われますが唯識思想では諸法はすべからく現象に過ぎず現象は認識により成り立つからそれを唯識としているのです。私の解釈では唯識無境とは唯心論よりもカントやフッサールの考えに近いものだと思います。ただし物自体は知りえないなどと曖昧な態度を取らず物自体など考える必要が無いと言い切ってしまっているのです。
唯識所変については意識が何かを認識をするためには認識する側に対象を構成する作用が備わっている必要があるから五感(仏教では五識)が直接意識にものを見せているわけではなく無意識のうちに意識が生じるよう構成作業が行われているということではないでしょうか。
大乗仏教ではテキストベースの教えは方便であり真理は言葉にできないものとの前提があるのでテキストを文字通りに受け止めるだけだと不十分だという点にも注意が必要です。
大乗仏教には因縁生起説に基づき縁起と呼ばれる関係性のネットワークを諸法の実相とするという考え方もあります。
因縁生起説とは原因(因)と条件(縁)が相互に作用して結果(果)が生じるという考え方です。この場合、どっちが因でどっちが縁かというのも絶対的ではなく本来切れない関係性のネットワークを識が切り取ったときの切り取り方に依存するものだと理解しています。また果についても単に結果として存在するのではなく果もまた別の縁に出会って転変し元の因や縁に影響を与え返すこともあるはずです。現象界は複雑に関係し合っており物理現象と心理現象すら隔てなく相互に影響し合い変化し続けるのです。
そしてそのように転変し続ける諸現象=諸法は実体ではありえず、切っても切れない複雑な関係性のネットワークの全体性が縁起であり、これこそが空性であり諸法の実相なのです。
そのように考えると覚りの境地から見た阿頼耶識とは個々人の個我が持つ個別の阿頼耶識(深層意識)のことではなく法仏たる如来の心身であり法界そのものである縁起のネットワークの全体性を指していることになります。いわば大阿頼耶識とでも呼ぶべき大円鏡智として覚りの智慧そのものになるのです。大乗仏教において唯識が唯心になるのは覚りの境地においてのみと解すべきと思います。悟りの境地に「外界」は無いのです。
逆に言えば、迷いの中にある個々人の持つ個我(そんなものは無いのだけれど一応あるとして)に具わる小阿頼耶識には無から一切を生み出すような力はないのです。
この章で著者はこれまでの物理主義的あるいは唯物論的ないし機械論的世界観から唯心論に転換しているように見受けられます。この次に述べるように物理主義を自然に延長すると決定論になるわけではなく逆の解釈もあり得ます。このため著者の形而上学において決定論的世界観を維持するために存在原因たる神が必要とされてしまうのでしょう。
5.量子論
ここでは量子論がとりあげられます。著者は量子力学の不確定性を「世界はみる人がいて初めて固まる」と表現しています。また自分からは見えない隣の部屋はあるのかという問いに対して「ある」ということは原理的に証明できないともいいます。
次いで量子論の定番の二重スリット問題について観測装置を設置すれば干渉縞が消える現象に関するコペンハーゲン解釈(量子の状態は粒子の状態と波の状態の重ね合わせでありどちらの状態にあるとも言及できない、観察すると観察方法に対応した状態に変化するという解釈)の解説から有名なシュレーディンガーの猫の話に移ります。そこから見る人がいて初めて世界が生まれる、観察法方法によって確定するまで世界は決まっていないといいます。
ここでゲームのたとえ話をしています。ゲームに様々なキャラクターが登場しますがあるキャラAに出会わなくてもゲームがクリアできるとします。そうするとAは閉じられた可能性としてゲームに内包されたままになります。
ここで再び世界は神様のVRゲームだという話が持ち出され、これが量子論と良く合致するといいます。並行世界が存在し、その中で特定の世界線が世界との相互作用の中で必然的に選ばれ、我々には選んだという錯覚が与えられるというのです。スピノザ的神様が初期設定をセットしゲームが始まるが実は人生ゲームの行程は自分自身の心が事前に決めている、それならば自分自身も神だというわけです。
ここからは私の個人的感想です。事前に得られる情報は確率だけとする量子論は、一般にラプラスの魔の存在が不可能であると示すものと理解されていると思います。物理主義が機械論的決定論に自然に延長されるのは量子力学を知らない時代までの話であって量子力学以後は確率に関する解釈の問題に帰着します。
確率とは意思が介入する余地のない偶然であるから自由意思を否定するとみることもできるし著者はその立場なのでしょう。問題は波束の収束が偶然で決まるとしてそれは収束するときまで真の意味で決まっておらず事前に分からないということです。確率を自由意思の否定とみる場合でも量子論は世界が事前にすべて決定されているというハードな決定論とは結びつかないのではないでしょうか。
もちろん確率的には決まってるので大局的には人間の意志に関わらず世界が決まっているという意味で決定論的に解釈するのなら分かります。しかし人生の筋道がすべて事前に決定されているというハードな決定論だと例えばシュレーディンガーの猫も生きているか死んでいるか箱がセットされる前から決まっておりさらにいえばその猫がその箱に入れられることすら事前に決まっていたということです。量子力学の知見が自然にそのように思考を導くと考えるのは無理があるし私は全くそのように思えません。
以前読書ノートを書いた「すごい物理学講義」のように量子力学から「あらゆる物理的な系からは常に新しい情報が引き出せる」という解釈を導き出す立場もあり得ます。常に新しい情報が引き出せるということは少なくとも引き出す側にとって引き出されるものはこちらが持っていない情報なわけです。引き出してみるまで事前に確定しないのだから事前に確実な予想を立てることもできません。そうであれば有限な存在でしかない人間にとってハードな決定論は実証不可能となります。
逆に言えば、量子力学を経てもなおハードな決定論を維持するにはスピノザ的神様が存在する必要があるのです。スピノザ的神様がすべての存在の原因として鎮座してこそ唯心=唯神としての阿頼耶識の存在が保証され偶然すら事前決定されていることになるのでしょう。しかしそこまでいくと哲学というより信仰告白のような気がします。
以前楽しい形而上学シリーズとして書いた拙稿「quan(久遠)成実図Q&A」のQ5に書いたように私にとって形而上学というのは真理を探究するものではなく形而下の現象を考察する時の助けになるのであれば考えてみても良いという程度のプラグマティックなものです。私が楽しい形而上学を考える動機は単純に神とか超越抜きで様々な形而下の現象を最小限統一的に説明できる原理ってあるのかなあという好奇心です。逆に言うとできる限り思考から神を締め出したいのです。その辺りが著者の志向と根本的に違っていると感じます。
確率と自由意思の関係について考えてみます。確率というのは外から与えられたという面とこっちが一生懸命情報を集めて見積もったという両面があります。結局、確率とはある種の情報だからです。情報を得るには相手が必要です。相手が心のない対象だとしても相手がないのに情報が生じることはあり得ないのです。相手があるから(捏造やフェイクニュースでない限り)恣意的に情報が創作されることはありません。
そして情報が情報であるためには情報源たる相手と受け手に共通する約束事が必要です。たとえ受け手が一方的に作ったものだとしてもです。そして情報を手に入れる手段は相手に応じたものでなければいけません。例えば素粒子の情報を得たいなら位置とか速度とかを定義して決まった測定方法で観察しなければならないわけです。もちろん観測手法のアップデートも行われますがそれだって恣意的にできるわけではありません。他方、観察する人間側に解釈可能な形でなければ情報は意味を持ちえません。要するに量子力学は対象と観察者の両方が情報を作るということを示しているのではないかと思うのです。
その際に重要なのは観察というのは超越的なものではなく相手に作用する行為だということです。観察後には情報を引き出された物理系の状態が変化し、また情報を得た側の状態も変化します。その結果、その後に引き続き観察される現象の確率も変化します。そのため二重スリット実験のようなことが起こるのです。
脳内に生じる意識と呼ばれる心理現象が観察を通じて物理現象に作用し新しい情報が引き出されるとき、世界は変容します。それがあるとないとでは結果が違ってくるのです。そうであればその意識的心理作用を自由意志とみなしても差し支えないでしょう。
6.意識
まずNCC(Neural Correlates of Consciousness )という意識を扱う科学的な方法論が紹介されます。意識に上る知覚に対応した十分なニューロンの活動とメカニズムの最小単位がNCCです。
NCCの具体例として両眼視野闘争が挙げられます。左右の目に異なる映像を見せるといずれか一方だけが意識に上がってそれが交互に入れ替わる現象です。サルの左目に赤い縞、右目に緑の縞を見せて、赤が見えている時は左、緑が見えている時は右のボタンを押すよう訓練します。この実験で視野の切り替わりに対応する脳の部位が特定できました。
また脳の特定部位にTMSという電磁気刺激を与える実験も紹介されます。例えば言語野にTMSを与えると絵が上手くなるといった効果があらわれるとのことです。言語機能を一時的に抑制すると見たものを見たままに描けるようになるのではないかと推測されています。
しかし脳の機能に対応する場所が分かってもどのようにそれをしているのかは分からないので意識のハードプロブレムは解けなかったといいます。
次にITT(Integrated Information Theory)という仮説が紹介されます。意識は情報統合することにより情報を解釈するといいます。例えば赤い物体がありそれがいい匂いがするなら情報を統合して林檎だと解釈するといいます。
著者は意識とは情報であり統合する必要すらないといいます。情報は身体に縛られません。太陽の光が海や山を照らして熱に変わるときにも情報が発生しており、つまり意識が発生するといいます。
意識の本質が情報ならば瞬間移動もできるし、アンドロイドに意識を移して不死になることもできるといいます。意識が01という情報に還元できるなら自分が意志で選んだと思われる行動も情報に還元可能であり自由意思によるマジカルな情報に還元できない裁量分があると考えるのは錯覚であり誤解であるといいます。
人間の意識のレベルは高いが結局は自然法則に従った振る舞いであり枯葉が落ちるのと同じことだといいます。外界のありとあらゆるパラメーターが分かれば意識に基づく行動もすべてあらかじめ予測できるといいます。
またクオリアについては記憶により説明されます。記憶には宣言的記憶とエピソード記憶があるといいます。宣言的記憶とは「赤(い生物)は敵だ」という記憶です。エピソード記憶とは「私は赤(い生物)に襲われた」という記憶です。宣言的記憶は忘れやすくエピソード記憶は強く定着されやすいといいます。著者は進化の過程でエピソード記憶を持つために「私」という主人公が開発され、「私」が生まれたことによってクオリアが生まれたといいます。
さらにベルクソンの思想が紹介されます。ベルクソンは「脳という物体のあるときの状態はその生物の行動の原因ではあってもその生物の心理内容を表してはいない。モノの知覚がどこにあるのか?無理にでも言えといわれるなら脳の中にではなくむしろ対象のうちにあるのだ」と言っているそうです。脳は心ではないのです。また記憶という表象は脳という物質の中には存在しないとも言っているようです。脳と身体の心の関係は指揮者とオーケストラと楽曲の関係だとも言っているそうです。指揮者を調べても楽曲の本質は分からないといいます。指揮者の主役感は錯覚にすぎないといいます。
またベルクソンは映写機の比喩を用いています。フィルムが1コマづつ順序立てて映像として提示されることで映画が成立します。フィルムにはあらかじめ全情報が事前に記録されています。そして人生がこれと同じだといいます。実在しているのは現在の持続、フィルムの1コマだけです。今の連続と持続によって物語が意味を持ち時間の流れが生まれますが過去も現在も未来も初めから映写機の中に入っているのです。他方、今が次々と持続していることは不思議なことだと言っているそうです。
著者はこの持続こそ意識の本質でありビッグバン以降に生まれた意識の自然法則だと考えているそうです。
ここからは私の個人的感想になります。情報が意識であるという説には私は賛同できません。私は量子論のところで確率を情報と捉える考え方をお示ししました。これと諸法=物理現象と心理現象の複雑なネットワークから立ちあらわれるあらゆる諸現象はすべからく識であるという仏教思想を統合すれば一切の諸法は情報であるということになると思います。すなわち心だけが情報なのではなく、物理現象の本質も情報なのです。もちろん著者もその点は「意識」していて万物に意識が宿ると言っているのだと思います。
しかし最新の認知心理学や脳科学の研究成果では著者自身が紹介しているとおり脳内の情報処理のほとんどが無意識のうちに実行されていることが示されています。万物に意識が宿るとしたら自分の脳内の意識すら私の意識から隠されているのはなぜでしょうか。その理由が分からないからスピノザ的神様が要請されてしまうのではないでしょうか。万物に意識が宿るという説明では私の意識のあり様を説明するには不十分であり、言い換えれば万物の意識と私の意識にの間には大きな隔たりが残ったままです。
拙稿『読書ノート「すごい物理学講義」』で書いたように同書の著者ロヴェッリ氏が提唱するループ量子重力理論に基づく情報理論の解釈によれば最も根源的なレイヤーである素粒子の物理系にすら計算能力があるのですから仏教でいう諸法のつらなりはそれ自体が計算=情報処理です。そして唯識思想における六番目の識である意識は識を認識する識なのです。そこから考えると意識は高次の情報処理、情報処理を対象とする情報処理から生まれるのではないかと思うのです。もちろんこれは楽しい形而上学にすぎず、著者の言葉を借りるなら科学的に全く正しくないトンデモです。
現在のAIはディープラーニングという技術を使っていると聞きます。私は文系人間で技術者ではないので理解が間違っているかもしれませんが現段階のAIは著者のいうブラックボックスの中を情報処理が一連の流れとして流れて一意に結果に到達してしまっているようです。したがって情報処理内部での情報処理自体の対象化が十分に行われていないのではないかと思います。
他方、人間の脳内に生じる意識現象というのは脳の無意識活動が生み出したある計算結果をそのまま受け入れるのではなく、それをいったん保留して様々な可能性と比べてから行動を選択したり、その行動の過程と結果をモニタリングして不測の事態に備えるようなはたらきなのではないかと思われます。林檎を林檎と認識するだけならAIにもできることです。林檎がなぜそこにあるのか。誰のものなのか。食べていいものなのか。食べた後に何が起こるか。そういう思考は現在のAIにはまだ無理なようです。
ここでもう一つ強調したいのは意識と「私」は全然違うものだということです。著者が披露した進化の過程でエピソード記憶の主人公として「私」が生まれたという説には全面的に賛同します。しかし「私」からクオリアが生まれるという説には賛成しかねます。今、目の前にある林檎の赤さはエピソードになる以前の原体験です。「私」が記憶の語り手に過ぎないなら原体験の主体は「私」ではありえないのではないでしょうか。
ちょっとコンピューターの話をします。フォン・ノイマン型コンピューターと呼ばれる現在のコンピューターではデータが入力されると中央演算装置が記憶装置からプログラム(それ自体が情報である)を呼び出してそれに従ってデータを処理します。データは別のデータに変換されて出力装置から人間が解釈できる形にして出力されたり、新たなデータとして記憶装置に格納されたりします。そしてプログラムは入力データに対して記憶装置に格納されているデータを統合して変換することもあります。その場合、中央演算装置は記憶装置からプログラムとデータの両方を呼び出しています。そして中央演算装置はプログラムがそうなっていれば新たな入力データを受け取らなくても記憶装置に格納されているデータを用いてこれらを変換したり統合したり増殖したりし続けることもできます。もちろんそのようにして内部で生み出されたデータも記憶装置に格納されます。
人間が設計したコンピューターと違い、人間の脳が実行している情報処理プロセスはもっと複雑で全容解明にはほど遠い段階にあります。確かなのはコンピュータでさえ情報処理には何段階ものプロセスがあるわけですから人間の脳であればもっと複雑なプロセスを踏むだろうということです。コンピューターに例えればクオリアは外部入力データの解釈プロセス、「私」は内部データの内部編集プロセスで発生しており段階が別であるという可能性もあると思います。
私たちは記憶の中から林檎の表象を呼び起こすことができます。そこには赤の感覚も生起していることでしょう。しかしそれは目の前にある林檎のリアルな赤の表象と同じなのでしょうか。仮にリアルな赤を見ているときと赤を想起したときとで脳の同じ部位が活動したとします。それをもって同一性の証明とみなすのであれば脳=心と認めることでありベルクソンの説が否定されるのではないでしょうか。しかしそれを認めないのであれば今度は記憶と原体験の同一性を証明することが不可能となります。ではベルクソン流の「私」の持続性はどのように担保されているのでしょうか。
そうしてみるとベルクソンのいう「持続」は原体験というパーツを記憶の中で力技で編集して「私」というタグを付けることによって成立しているのではないかとも考えられます。最初からひとつながりのフィルムが用意されているのではなく、バラバラのコマを強引にくっつけて作り上げた巻に「私」というタグを後付けしているのです。
「私」とは編集済みの記憶を整理するために付けられた標識にすぎず、実体ではないし、現象でもないのです。仏教的にいえば諸法無我です。ひとつながりのフィルムの上映としての「私」の人生は意識が「私」を意識した時にだけあらわれる幻影なのかもしれません。
7.ベクション
ベクションとは自分の体が動いているという錯覚です。例えば停車している電車に乗っているときに対面する電車が動くと自分の電車が動いたと感じるような錯覚がベクションです。様々なベクションが知られており桟橋に立って川の流れを見ていると自分が動いてるように感じられたりします。著者はベクション研究の専門家だそうです。
ベクションを起こすために被験者に見せる運動の刺激が大きいほどベクションを感じやすくなるそうです。またお酒を飲むとベクションの感じ方が強くなるそうです。飲酒による脳の血流の変化とベクションの感じ方の変化を数値化して関連づける研究などをしているそうです。著者は、身体が動いていないのにありありと動きを感じるベクションは数値化できない主観世界世界としてのクオリアに近い現象だといいます。
著者はベクションを地動説にたとえます。心理学では心を数値化できないので刺激と行動を記録して背後にある心を探ってきました。意識は訳のわからないものだから客観的に記述できるモノのみで心を語る時代だったといいます。しかし著者はモノが実在で意識が訳のわからないものなのではなく、意識が実在でモノが訳の分からないものなのだといいます。
哲学ではカントや唯識がこれにあたるといいます。自分が動いているのか世界が動いているのか両義的な刺激状況がベクションだといいます。これを敷衍すれば自分が行動を選択しているのか、それとも世界に行動を選択させられているのかという状況に行きつくといいます。自分が選択しているといういう感覚は自分が動いているというベクションという錯覚と相似形だといいます。
ここからは私の個人的感想です。カントと唯識が近いというのは私も同じ見方です。また既に説明したとおりこれらは唯心論とは違うものです。私の理解ではカントは認識論によって形而上学的存在論を回避しており唯識思想は実体という形而上学的存在概念を否定しています。他方、唯心論は形而上学的存在論でしかありません。結論としてカントは自由意志を否定していません。また仏教は錯覚なのは自我の存在の方だと言っています。
大乗仏教の覚りの境地では自他を分ける考え方が否定されます。自我が滅するとき自分は存在ではなくなり主体でも客体でもなくなります。しかしこれは修業するとあったモノが消えて無くなるというわけではありません。大乗仏教には如来蔵思想というものがあります。衆生は本来もとから覚っているが自我が存在するという錯覚の中にあるので迷いを取り除けば如来になれるということらしいです。大乗仏教的には「自分」が動くことと「自分」が動かされることには本質な違いはないともいえます。
そうはいってもそれでクオリアが消えてくれるわけでもないのでそこにこだわるのであれば問題は残ったままです。発想の転換も大事ですがクオリアの問題はそれともまた別のような気がしています。クオリアは世界の問題でもないし「私」の問題でもないのです。
8.新実在論
ここでは最近話題のマルクス・ガブリエルの新実在論が取り上げられます。マルクス・ガブリエルの存在の定義は次のようにまとめられます。
存在する=なんらかの意味の場にあらわれる=実在する
想像上の生き物でもアニメのちびまるこちゃんでも意味があるのであれば現実の生物や人間と同じように存在するといいます。なおガブリエルは「全ての意味の場を包含する意味の場」としての「世界」は存在しないとも言っています。
ガブリエルは知覚は脳の中にはないとベルクソンと同じようなことも言っています。私は脳の中に閉じ込められていない、例えばノックされた扉の音の知覚は脳の中だけではなくノックされた扉、環境、世界の中にもあるはずだといいます。
その上で「生きる意味とは生きることに他ならない。尽きることのない意味に取り組み続けること。必要のない苦しみや不幸が存在するのは事実だ。それでも無限の意味の場に存在し続けるだけ。」と言っているそうです。
著者はこれを自分自身がすべて事前に決めた世界を自由意思の錯覚を持ちながらただ生きるよりすべがないという著者自身の心理学的決定論に引き付けて解釈しているようです。心理学的決定論とは自分自身が神であることを認める思想だといいます。
ここからは私の個人的感想です。マルクス・ガブリエルは最近話題の哲学者なので何冊か彼に関する本や彼が書いた本の邦訳を読んだりしています。読書ノートで取り上げたことはまだないです。なぜかというと彼の話がまだ良く理解できていないからです。意味の場とかそれに応じて実在の意味を再定義するといった話は理解できると思います。また新実在論は仏教の諸法の分類において物理的存在ないし現象と心理的存在ないし現象を同列に取り扱っていることとも親和的だと思います。このことは以前、拙稿『読書ノート「空海の哲学」(著:竹村牧夫 講談社現代新書)』にも少し書いています。なおガブリエルは新実在論をまとめる以前にインド人の知人からインド哲学の話を聞いていたようで偶然似ているだけというわけでもないようです。
他方、彼はポピュリズムやフェイクニュースに対抗するために事実に基づく政治が必要というようなことを言っています。また一般的な解説でも彼の新実在論はポストモダン的価値相対主義に対抗するものとされます。私は新実在論の解説を見てその限りで分かった気になるのですが、しかし新実在論がどうやったらそういう意味での「事実」の基盤になるのかさっぱり分からないのです。
この話は本書の内容とは無関係な脱線でした。他方、著者が新実在論を著者の心理学的決定論を裏付けるものと理解しているのをみて、ちょっと安心したというか、著者と私の新実在論の読み方には大きな違いはなさそうな気がしています。そこから何を引き出すかは大きく違うようですが。
9.まとめ
この後、曼荼羅や現代芸術など言語化できないものをアートで示す可能性やアートで脳にせまる心理学的試みなどの紹介があり、また文学の話などをされます。ダン・ブラウンという作家の書いた「オリジン」という小説には生命の進化に一貫して流れている法則とは生命は情報の量を増やすように運命づけられていることだと書かれているそうです。
そして本書の結論が書かれます。
意識とは情報であり生命とはその情報を増やすために配置された「なしがしか」(存在)である
意識が情報ならば意識を火星に飛ばせば移住できるといいます。物体から離れて情報として永遠に生きることも可能だといいます。
また自分以外のなにがしかに心があることは証明できないとし、それならば心を見出すのは我々の自由でありAI美空ひばりに涙を流す人がいるならAI美空ひばりは生きているといえるといいます。漫画「ワンピース」の登場人物Dr.ヒルルクのセリフ「人はいつ死ぬと思う?人に忘れられたときさ」を引用して命の本質は情報だといいます。
そして心理学的決定論における世界や人生の美しさをプロレスのようなものといいます。たとえシナリオがあり結末ありきだとしてもその美しさは変わらないといいます。著者は、心理学的決定論は退廃的に生きることを推奨するものではなくむしろ絶望からの救いになるといいます。
ここからは最後の感想文です。本書のまとめについては形而上学というより倫理感的な話になっているので著者の考えは考えとしてそのまま受け止めたいと思います。私としては形而上学からいかに生きるかを引き出そうという思いがあまりないのでそこは口出ししません。
情報がすべからく意識であるという説には賛同できないという話はもうしたので繰り返しません。他方、哲学的問題として意識が情報という面を持つとしてその人の全情報をコピーしたり保存したりしたら永遠に生きられるのかという問題があります。脳と身体の関係は厄介で現時点で結論も出ないでしょうからとりあえず脳に限らず全情報とします。その人を調べても発見されないものはコピー不可能とします。
このとき情報的な何かが生き続けるとして、それはいったい何なのかという問題に帰着するだろうと思います。クオリアという何かが存在するとしてそれが生物としてのヒト個体を徹底的に調べてもどこにも見つからないならコピーできません。しかしクオリアがプロセスから発生しているのであれば全情報をコピーすればコピー後にクオリアも自然発生するかもしれません。
このときオリジナルとコピーはどういう関係になるのか。コピーを複数作ります。完全に同じ環境に置くことは原理的に不可能なのでコピーされた瞬間からどのコピーも他のコピーやオリジナルとは異なる道を歩み始めます。またクオリアが自然発生したとしてもコピーたちとオリジナルの間でそれが共有されることもあり得ないでしょう。
このときオリジナルもコピーたちもその他の全人類も誰がオリジナルなのかを忘却したとします。情報が消去されたということです。人にその事実を忘れられた時、コピーとオリジナルの関係性は消滅するでしょう。コピーたちがコピーされた事実を忘却したらどうなるでしょうか。オリジナルとコピーたちは赤の他人となるでしょう。
ここに至るとエピソード記憶の語り手としての「私」と「自己」は実は違うのではないかという考えに至ります。彼らにとってコピーされる以前のエピソード記憶は共通のはずです。しかしその限りにおいて物理的に自己が共有され続けているという話になるでしょうか。
自己とは脳内のエピソード情報以前に他者との関係性において規定されているのです。したがってオリジナルにとってコピーが自己と同一化される可能性は全くないといっていいでしょう。ヒト個体の全情報をコピーしても中途半端な「私」のエピソード情報をコピーされた他人が増えるだけです。もしオリジナルがコピーを自己と同一だと感じるとしたらそれこそ完全な錯覚だと思います。つまり情報をコピーしても「自己」が永遠に生き続けることにはならないのです。
自己は実体ではなく、現象でもなく、コピー可能な情報ですらないのです。他方、意志と言われる心理現象は間違いなく実在します。それが現象していることをほかならぬ自分自身が知っているはずです。意志の形成には無意識のうちに様々な現象/情報が影響します。その意味で意志現象という系は意志以外の現象の系から引き出されていますが意志現象もまた他の系から情報を引き出しているはずです。関係性の下での相互作用から新しい情報が引き出されることで世界は変化し続けます。その中で同一性を保つようにみえる『自分』とは実は関係性のあり様の言い換えにすぎないのではないでしょうか。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉があります。私はこの証明らしきものは証明されていない隠れた前提「思うという行為には我という主体がある」を分析しただけのあまり意味のない命題だと思っています。しかし「思い」があるとき確実なことは「思い」があるということです。その主体が何かは分からないとしても、あるいは主体なんかないとしても。
最後に冒頭に書いた個人的思想を再掲します。「未来は不確定。また存在しないのは意思ではなく『自分』の方である。」
以上でこの読書ノートを終わりたいと思います。
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