アナログ派の愉しみ/映画◎溝口健二 監督『元禄忠臣蔵』
そこに「討ち入り」の
場面が描かれなかった理由
数ある忠臣蔵映画のなかでも、最も異様な作品が溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』第一部(1941年12月公開)、第二部(1942年2月公開)だとは大方が認めるところだろう。その主たる理由は明らかだ。赤穂浪士47名が主君の憾みを晴らすべく吉良上野介の屋敷へとなだれ込む「討ち入り」の場面がないことである。「討ち入り」のない忠臣蔵とは、譬えるなら千秋楽のない大相撲のようなものだろう。
なぜ、こんな事態が生じたのか? この映画で脚本を担当した依田義賢は、企画当初から溝口監督が「討ち入り」の場面を避ける方針だったと伝える一方で、建築監督をつとめた新藤兼人は、大がかりな吉良邸のセットを組んだにもかかわらず直前になって溝口監督が撮影中止を決めたと証言して、実際のところはハッキリしない。だが、ハッキリしているのは、このことによって評価が著しく損なわれて興行的にも失敗したことだ。そりゃそうだろう、とわたしは頷きながらも、公開から80年あまりが経過したいまあらためて眺めてみると、どうやら「討ち入り」の欠如には特別な意味のあったらしいことに気づくのだ。
映画はいきなり、江戸城「松の廊下」を原寸大で再現したという豪勢なセットで、浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷沙汰からはじまる。ただちに内匠頭が切腹に処せられたのち、場面は転換して、領地没収となった播州赤穂で今後の対応をめぐり藩士たちの意見が紛糾するなか、筆頭家老の大石内蔵助(河原崎長十郎)がひたすらある知らせを待ちわびている様子を映しだす。そこへようやく京都留守居役の小野寺十内(加藤精一)が到着して、御所より「内匠頭一念達せず不憫なり」とのお言葉が聞こえてきたことを報告すると、大石はずいぶんと長いセリフを吐く。
「このたび内匠頭長矩の不調法は、実もって軽からぬ罪でござりませぬ。たとえ意趣ありとて、遺恨ありとて、御勅使に対する無礼は無礼、大不敬の罪に問われましても一言の申し開きなき場合、これを京都御禁中御簾のうちより洩れ承るお言葉、御築地うち公卿方よりの御悔やみのお言葉、これにて内匠頭、救われました。家名の断絶、惜しいことではござりませぬ。所領五万三千石、嘆くことではござりませぬ。万一京都不敬の罪に問わるれば、浅野内匠頭長矩は、永世末代、身の置きどころなき勅勘の身、われら家中一同とても、日本国中にかがむところなき不敬の罪に服さねばなりませぬ。一念を遂げず不憫なりとのお言葉は――救われました。我いかに焦り願えばとて内匠頭無念の仇討ちは叶わぬ儀にござりました」
かくして、感涙にむせびながら京都の方角に平伏し、天皇の意を受けて幕府の横暴に立ち向かうことを誓うのだった。およそ他の忠臣蔵映画で目にしたことのないこの場面が、吉良邸「討ち入り」に取って代わる最大のクライマックスといえるのではないか。
本作は、日本の中国大陸侵攻をめぐってアメリカとの関係が行きづまり、いよいよ太平洋戦争へと突き進んでいった時期につくられた。すでに物資の窮迫によって映画製作もままならない環境にあったものの、これに関しては武士道精神の宣揚を目的とした情報局国民映画参加作品と位置づけられてふんだんな予算があてがわれ、フイルムの冒頭には「護れ興亜の兵の家」のエピグラムが掲げられている。こうした状況を閲してみると、映画を取り巻く人々のあいだにはおのずから巨大な幕府権力を「鬼畜米英」に、それに対して決然と勝負を挑む赤穂浪士を「皇国」に重ねあわせる心情があったろう。だからこそ、日米開戦と同様に、吉良上野介の仇討ちにも天皇の承認が必須の条件だったのだ。
このあと、浅野家再興の目論見も空しくなり、大石以下の赤穂浪士たちはまっしぐらに義と引き換えに自己の命を捨て去ることに狂奔する。そこには他の忠臣蔵映画が描くような逡巡や葛藤は寸分もなかった。そして、吉良上野介の首級を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に捧げ、ついに幕府のご政道の過ちを覆したのち、全員が亡君と同じ切腹をたまわって、ひとりひとり白州で白刃をふるって果てていくのを見送った大石は、最後に自分の順番がめぐってきてこうつぶやく。
「どうやら皆、見苦しきさまなく死んでくれたようにござります。これで初一念が届きました。御免下さりましょう」
その結末は、すでにして太平洋戦争のかなたに「皇国」の終焉を見据えていたようにも見えるのだ。この映画に「討ち入り」の場面は必要なかった、とわたしは思う。