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『かぐや姫の物語』を見て

創作物の鑑賞というのは、
その人の「今」を映し出す、
鏡だと私は考えています。
そのため、この感想も、
今の自分が、今感じた、
今の私だけの感想です。

生きることを全肯定する表現

この映画で一番印象的な点は、
生命という儚くも美しいものを
独特なタッチで描いている点です。
四季の美しさ。虫、鳥、動物、
人間の命。この世の全てのものの
「生」の瞬間を愛しさを持って
見つめている作者の眼を感じました。

その生命を最も細やかに表すのが、
独特なタッチで描かれた絵。
アナログ時代を生きた作者の
デジタル時代への本気の抵抗。
生きるということは、全てに対して
真剣に向き合う必要があるのだと、
どの生き物だって誰もが真剣に
生きているのだと、そんな思いを
感じとりました。

また音楽もその生命の美しさを
全力で表現しています。
何日経っても、あの壮大で、
生きる力がみなぎってくるような
美しい音色が忘れられません。


桜のシーンと若さ

桜のシーンはやはりとても印象に残っています。
桜は、極めて寿命の短い植物です。
春の訪れを知らせて、すぐに散ってしまう。
かぐや姫はどうでしょう。
かぐや姫は、筍のようにぐんぐん成長し、
一番美しい時期に天に帰ってしまった。
なんだか似ています。
私はこのシーンから「若さの儚さ」を
感じとりました。
若さにもやはり、桜のように盛りの時期があって、
その後は衰えてゆくのが自然です。
その時を生きている当人は気づかないけれど、
後々その若さの儚さを実感します。
短い若い時代を全身全霊で謳歌すること。
それは、どの生き物の「一度きりの生」の中でも
最も大切なことなのではないでしょうか。


かぐや姫と現代人

かぐや姫は、野山を愛し、自然を愛し、
生きることを愛していました。
しかし、都に移ってからというもの、
生き物としての自分ではなく、
人間としての自分を生きることを強制されます。
そして結局は、地球の豊かな生命を
味わい尽くすことなく、月に帰っていきます。
今の人々もどうでしょう。
私は田舎町に生まれ、子供の頃は
虫も、動物も、草花も、全てを同等に捉え、
感動し、喜び、遊んでいました。
しかし、思春期を迎え、東京へ移住し、
自然のものと触れ合う機会は極端に減りました。
いつしか虫を怖がり、触れたいという気持ちが
なくなりました。
そこには、人間と虫を同じ生き物として
同等に見られていないような不信感があります。
しかしそれは、社会のシステム上
仕方のないことです。
人間として生きることは、
社会の一員となるには必ず求められます。
人間としての生を強制され、
結局は、自然の美しさを堪能することなく
私も死んでいくのかもしれません。


何日か経っても心に残っている
印象に沿って、感想を述べました。
少し前に見た時には、
おじいさんのせいで、かぐや姫は自由を
無くしてかわいそうだ。
そんな印象を持っていました。
でも、今見ると、
おじいさんのことはあまり印象に
残らなかったです。
むしろ、「生命」というものを
あまりにも美しく描いている
高畑監督の最後のメッセージに
なんだか圧倒されました。
また大人になると、
「子供と過ごす日々の儚さ」
という視点でまた楽しめるのかも
しれません。


『かぐや姫の物語』スタジオジブリ









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