歌や句に詠まれた日本の風景
天の香具山 [持統天皇の歌]
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
衣干すてふ 天の香具山
春が過ぎて緑鮮やかな、天の香具山に白い衣が干されている様子を、持統天皇(645 〜697)が歌い上げた。
天の香具山は、天から降りてきたという伝説があり゙、畝傍山、耳成山とともに大和三山と称される。
衣の枕詞である白妙が、この歌をより爽やかにしている。
今の季節に相応しい一首から、日本探訪を始めよう。
大江山 いく野 天の橋立
[小式部内侍(こしきぶのないし)の歌]
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
作品制作にあたり、小式部内侍(999〜1025)のことを初めて知った。
母・和泉式部とともに一条天皇の中宮・彰子に出仕。母の式部と区別するため「小式部」という女房名で呼ばれていた。
小式部内侍は、年少ながら作歌に秀でていた一方で、母が代作しているとの噂もあった。
母が夫・藤原保昌(丹後守)ともに丹後に下っていた頃。歌合に招かれた小式部内侍は、同席していた藤原定頼から
「代作を頼む使者は出しましたか。代作を持って使者は帰ってきましたか。」
と問われ、小式部内侍は
「大江山に向かう途中の生野への道が遠くて、母のいる天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」
という意味のこの歌を返した。
歌の中で
「いく野(生野*、往く野)」
「ふみもみず(文も見ず、踏みもみず)」
2つの掛詞を使って、都から丹後までの距離感を
巧みに表現した歌に、定頼は二の句が継げなかったという。
*生野 現在の京都府福知山市内に、歌枕の地 「生野の里」が存在する。
霧島 [種田山頭火の句]
霧島は 霧にかくれて 赤とんぼ
山口県佐波郡(現在の防府市)生まれの
種田山頭火(1882〜1940)は、句作と酒を伴う放浪の人生を送った。
周陽学舎(現・山口県立防府高等学校)在学中に句作を始める。後に荻原井泉水主宰「層雲」に入会、精進を続け同誌の俳句選者の1人となった。
大地主の家庭に生まれ、学業に優れ、学生の頃から俳句の世界で実力を伸ばしてきた山頭火であったが、孤独感、空虚感に苛まれていたようだ。それが酒癖、放浪につながる。それ故に身を持ち崩し、師匠である井泉水や支援者たちが、山頭火の生活を援助した。
主因になったのは山頭火が11歳の時、父の芸者遊びなどを苦に、母が自宅の井戸に投身自殺をしたことによる。
成人してからも
「私の性情として憂鬱にならざるを得ない」
これが山頭火に終生つきまとっていた苦悩だった。
1925年9月、山頭火は熊本の寺を出て、句作の旅に出る。熊本から宮崎、鹿児島、宮崎、大分、福岡の順で九州の路をたどる。
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
9月21日、町の南西部に霧島連山が横たわる高原(「たかはる」と読む。現・宮崎県小林市)から高崎新田(現・都城市)へ歩を進める間に作られた句である。
「霧島は霧にかくれて見えない。ただ高原らしい風が法衣を吹いて通る」
霧島の山々が霧に覆われ、高原に涼やかな風が吹く。霧深き山並みに赤とんぼがアクセントを添える
初秋の1句。
旅路は九州から東北に及んだ。途上で精神不安定から自殺を図ったが、1939年愛媛県松山市に移り、終の棲家となる「一草庵」を結庵。
1940年10月11日、漂泊の旅を締めくくるかの如く、山頭火はこの世を去った。遺骨は故郷・防府市内の
寺院に納められている。
田子の浦 富士山 [山部赤人の歌]
田子の浦ゆ うち出でてみれば
真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
山部赤人(生年不詳〜736年?)の生涯に関しては、残念ながら資料が少ないが宮廷歌人を務め、柿本人麻呂とともに歌聖と称えられる。
赤人の代表的なこの歌は、冬の日に舟を漕ぎ出し、田子の浦を経て、海原に出て海越しに眺める雄大な富士山の山頂に雪が降り積もる風景を描いたもの。海の青と雪の白の対比が鮮やか。
田子の浦は現在、静岡県富士市の田子の浦港を指すが、歌枕としての田子の浦は、静岡市清水区の薩埵峠の麓から由比・蒲原あたりの海岸、とされる。
歌が詠まれた当時と、現代では景観は比べるべくもない。
歌枕・田子の浦とされる海岸には、鉄道・国道そして高速道路が通る。田子の浦港がある富士市内は製紙工場が立ち並び、煙突から絶えず煙が吐き出される。東海道新幹線で付近を通過する時、富士山が近くに聳えているにも関わらず、スモッグで山が見えないこともある。
しかし時代が変わろうと、赤人の歌とともに富士山と田子の浦が、駿河の代表的な歌枕として、永遠に存在することを願う。
松島 象潟 [おくのほそ道]
松島は笑ふがごとく(原文は「如く」)
象潟はうらむがごとし
象潟はもともと潟湖であった。
1804年に地震が起こり、湖が隆起して陸地になった。
松島と象潟は、それぞれ海と田に浮かぶ多島美を眺めることができる。
太平洋側と日本海側という、気候が異なるこの2つの場所を、芭蕉は対句にして表現した。
松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。
おくのほそ道は、松尾芭蕉(1644〜1694)が門人の河合曾良を伴って、1689年3月江戸を発ち、奥州・北陸道を巡り、美濃の大垣を結びの地とする紀行文。
旅の目的は、芭蕉が崇拝する西行500回忌の大きな節目の年に、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることであった。
芭蕉と曾良は、日光・黒羽・白河の関・松島・平泉・立石寺・尾花沢、大石田から最上川を下って出羽三山に登り、酒田から象潟へ向かう。
「江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影ややかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。」
酒田を発った時は小雨、途中の吹浦で豪雨になり泊まりを余儀なくされた。その翌日、象潟のほとりの塩越に到着。一夜明けていよいよ象潟へ。舟に乗り能因島、そして蚶満寺に渡り絶景を楽しんだ。
芭蕉は象潟の印象を
「寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり(寂しさに悲しみを加えて、地形は憂いに沈む女性の姿のようだ)。」
と記し、さらにこの句を詠んだ。
象潟や雨に西施がねぶの花
雨に濡れるねぶ(合歓)の花を、中国古代四大美女の1人でありながら、悲劇の最期を遂げた西施に例えた。
日本海沿いに旅路は続く。
旅の全行程は約600里(2400キロメートル)、日数150日に及んだ。
日本の風土・風光のスケールの大きさを、芭蕉は現代を生きる私達に教えてくれる。
釧路 [石川啄木の歌]
しらしらと 氷かがやき 千鳥なく
釧路の海の 冬の月かな
石川啄木(1886〜1912)が北海道で暮らした1年のうち釧路での生活はわずか2ヶ月余り。
啄木一家の北海道での生活は函館から始まった。
文筆で身を立てることを目論みつつ、小学校代用教員、商工会議所の臨時雇い、新聞社の遊軍記者の職を得て、家族を岩手からを呼び寄せたものの、大火で小学校と新聞社の建物が焼失。
知人の伝手で札幌の新聞社、さらに創刊する小樽の新聞社へ移るが、新たに札幌に新聞社ができそうだという話に乗ったのが原因で事務長との紛争が生じて退職。
そして、編集長経由で社長から釧路の新聞社への斡旋を受けて、家族を小樽に残し釧路へ、新聞の読者を増やすなどの実績を上げたが、中央文壇から遠い釧路での生活に焦燥感を覚え、東京へ向かう決意をする。
その中で、啄木が出会ったのは
蓮葉氷が夜の月に照らされて輝き、千鳥がないている浜辺。
美しい光景だったに違いない。しかし、生活費を稼ぐために家族を置いて転々とせざるを得ない我が身を、旅鳥である千鳥になぞらえたか。
上京後も、知人や友人から経済的支援を受けつつ、新聞社で働き校正から全集出版、紙上歌壇の選者を務める。一方で自身の歌集発行に漕ぎ着けたが、結核に冒され、1912年4月13日に死去。
啄木は不運というより、先の見通しと経済観念の無さが、啄木自身と家族を路頭に迷わせた。しかし、独特の作風で世間を魅了させ、作品群は今の世にもなくてはならない財産になったのである。
七尾 [与謝野晶子の歌]
家々に 珊瑚の色の 格子立つ
能登のなな尾の みそぎ川かな
与謝野晶子(1878〜1942)は、夫・鉄幹(1873〜1935)
とともに、全国を吟行した。
夫妻が石川県を訪れたのは、昭和6年。
山代温泉、片山津温泉、小松、七尾・和倉温泉…
吟行だけでなく温泉巡りも楽しみだったようだ。
山代温泉は、特にお気に入りで県内の温泉地で1番訪れた回数が多いと言う。
山代のいで湯に遊ぶ楽しさは
たとへていえば古九谷の青 (鉄幹)
片山津温泉では、柴山潟湖底土と片山津温泉の源泉を使った泥染めがあり、うす紫に染まる様子が
風起こりうす紫の波うごく
春の初めの片山津かな (晶子)
の歌を連想させることから「晶子染め」と名付けられ、現地では体験が出来る。
[晶子染め体験]
芸妓検番「花館」 ☏0761-74-7778
小松では、串川にかかる串橋と安宅の関跡を訪れ
串の橋二つの潟をつなげども
此処に相見て我等は別る (晶子)
柴山潟と今江潟をつなぐ川、北前船の寄港地・安宅湊と南加賀を結ぶ重要な航路であった。
松たてる安宅の砂丘 その中に
清きは 文治三年の関 (晶子)
義経・弁慶そして富樫を想ったか。
そして、七尾の御祓川の沿岸で、珊瑚色の格子が立つ家々の様子に感動して
家々に珊瑚の色の格子立つ
能登のなな尾のみそぎ川かな (晶子)
と歌った。
2024年の幕開けに起きた能登地震。被害が大きく和倉温泉全ての旅館が休業している(与謝野夫妻が訪れた旅館も然り)。海岸や沿岸の土地が隆起して復興の道を妨げている。
土地を離れる人もいれば、再び活路を見出し地元に残る人もいる。
まず、「命あることを」願うばかりである。
平成の世になってから、災害が増え、かつて豊かだったはずの日本が貧しい国になった。有形無形の文化も失われつつある。
そこで目を向けたいのは、与謝野晶子の生き方。
作家・歌人、評論家(政治、教育、女性の自立)、学校の設立、と幅広い業績があるが、12人の子供を養うためでもあった。
何よりも、お金をかけずに工夫して心豊かに生活していた。
玩具は買ってもらえなかったが、夜に枕元で話を聞かせてくれた。季節ごとにお菓子を手づくりした。
ひと晩で服を縫い上げてくれた…。晶子の息子・娘達が語っていた。
今の世の中を生きるヒントが晶子にある、と私は思う。
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