ハードボイルド書店員日記【190】
「すいません、円城塔さんの本はどこですか?」
大柄な女性。学生ではないだろう。腰まで伸びた波打つ黒髪に同じ色のロングTシャツ、そしてデニムのスキニーパンツ。目元とリップが赤い。
「当店は作家別ではなくジャンルごと、出版社ごとに置いています」
「あ、そうなんですね」
「お探しのタイトルがございましたら」
「実は読んだことないんです。友達に勧められて。デビュー作とかありますか?」
「ございます」
文春文庫の棚から「オブ・ザ・ベースボール」を取り出した。
「調べなくても知ってるのすごいですね」
「たまたま既読でした。空から人が降ってくる町の物語です」
「……ラピュタ?」
「残念ながら。主人公はレスキュー・チームに所属し、ユニフォームとバットを支給されています」
唇を尖らせて首を傾げる。そりゃそうだ。
「つまり落下してくる人を打ち返すのが仕事なのです。そのために規則正しい生活を送り、日々素振りや走り込みを」
豊かなまつ毛が上下に揺れた。
「あと本屋も映画館もない町ゆえ、彼は思いつくことを部屋でノートに書き綴っています」
我ながら意味不明。もっと興味を惹く話をするべきだった。
「……楽しそう」
意外な反応。胸が踊る己を密かに恥じた。
パラパラ捲り「何これ」と白い歯を覗かせる。
「『カム』『カムオン』『カァモン』ですか?」
「え、そこからページ見えました?」
「いえ裏表紙しか。でも笑える箇所はさほどないので」
「わからないけど続きが気になります」
「本書と同じく芥川賞候補になった『これはペンです』もそんな感じでした。受賞した『道化師の蝶』は少しだけ読み易いかも」
明らかに話し過ぎている。めずらしく暇な日々が続いたせいだろう。
「薄いし買っていこうかな」
「ありがとうございます」
「あ、忘れてた。もしかして店員さん?」
「はい?」
無論私はここの店員だ。そういう意味ではないだろう。
「読んだ本の内容を覚えていて、引用してくれる書店員がこの店にいるって友達が」
「そんな奴がいるとは初耳です」
しかし、と意図的な咳払いを挟む。
「本書に関しては記憶がクリアなので、真似事ぐらいはできるかもしれません」
62ページを開いてもらった。そこにはこんなことが書かれている。
俺にはここで起こっていること以外の入力がなく、その他のことは思いつけない。ランプの傍でノートに書き込み続ける俺は、ランプの傍でノートに書き込み続ける俺を書き続けていて、書き続けられている。
「ややこしいなあ。メタ入ってます?」
鋭く曲がった眉をひそめる。
「もうひとりの自分が、書いている自分を冷静に観察しているイメージでしょうか」
「もしくは著者が作中の主人公を操り、ノートに書かせている様子を、著者が主人公の視点を借りて描写しているとか?」
顔を見た。このメイクはフェイク。地雷原は他にある。勝ち誇るように黒目がボリュームを増した。
「もっと血の巡りが悪い子だと?」
「失礼しました」
「こんな人いないけどね」
私もここで起こったことを部屋でnoteに書き込み続けている。noteに書き込み続ける私を書き続け、書き続けられている。ハードボイルド書店員は私ではない。同時に私でもある。私が生み出し、操り、動かしているはずの彼がいつしか私の視点に立って作品を綴っている。その様子を私が眺めている。後輩に背番号を奪われた元エースの眼差しで。
彼女は実在しない。しかしいまやそれも疑わしい。手元にある「オブ・ザ・ベースボール」の89ページを開いた。こんな文章が綴られている。
オール。ライト。全ては正しく間違っている。カモン。
創作はゼロからイチを生む。一度生まれたイチはもはやゼロではない。だから信じていいのだ。カモン。