ハードボイルド書店員日記【188】
「あれ?」
穏やかな平日の午後。レジにかつての上司が現れた。最初に勤めた大型書店でお世話になった方である。
「御無沙汰しています」
「いつから?」
「4年ぐらい前ですね」
「○○書店で働いているって聞いたけど」
「そこも閉店してしまいまして」
「ああ」
10年近く会っていない。頬が黒ずみ、頭には白いものが増えた。でも安心させてくれる笑顔は変わっていない。
「ぼくは契約社員として再雇用されて△△店にいる」
「雑誌担当ですか?」
「あと仕入れ。フルタイムでこき使われてるよ。引退したいけど人手不足でね」
「ウチで買ってくれるんですか?」
彼がカウンターの上へ置いたのは、ビジネス書一冊とデアゴスティーニから出たばかりの「あぶない刑事 DVDコレクション」創刊号である。
「社割ばかり使ってると、価格に対する感覚が鈍るんだよ」
「わかります。文庫の時代小説をずっと買っている人や雑誌を定期購読しているお客さんの方が敏感で」
「あまり話題にならないけど、本もけっこう値上げしてるよな。この前も版元の営業が申し訳なさそうに話してたよ」
私は社割をほとんど使わない。理由はいくつかあるが意地みたいなものだ。第三者の目には、好き好んで損をしている愚行としか映らないだろう。
「小説、まだ書いてるの?」
「新人賞には応募してません。noteで毎週日曜に新作を」
「ハードボイルド?」
「自分なりの。愛好者には嗤われそうですが」
「時代に逆らってれば、みんなハードボイルドだよ」
「聞き覚えがありますね」
「これだよ」
購入したばかりのDVDマガジンを人差し指で軽く叩く。
「続編の『もっとあぶない刑事』かな。第一話でユージが」
「思い出しました。『流れに逆らうのが、ハードボイルドだど』」
ふたりで笑い合う。
「久し振りにハードボイルド読みたくなってきたなあ。何かいいの知ってる?」
「ひとつ閃きました」
カウンターを離れ、海外文学の棚へ向かった。早川書房から出ているローレンス・オズボーン「ただの眠りを」を抜き取って戻る。レイモンド・チャンドラーの生み出した私立探偵フィリップ・マーロウが主人公だ。
「ポケットミステリー、最近はあまり本屋で見掛けないな」
「そうかもしれません」
「書いたのはチャンドラーじゃないよね」
「現代のイギリスの作家です。作中のマーロウは72歳。10年前に引退してメキシコでのんびり暮らしているという設定で」
「『あぶ刑事』の新作映画見た?」
「いえ」
「ぼくもまだだけど、たしか柴田恭兵がいま72歳で舘ひろしは74歳のはず。作中の設定は知らないけど」
私よりも彼らの世代に近い元上司は、嬉しそうに黄色いページをパラパラ捲った。
「よろしければ44ページを」
そこにはこんなセリフが書かれている。
「引退というのがこんなにもの悲しいものだとは思ってなかった」
「好きなことがやれる身分のどこが悲しい?」
「私はまだそれほど歳を取ってるわけじゃないのかもしれない」
「わからんでもない」
白くて整った歯並びが露わになる。
「いまのぼくの立ち位置だと、それでも引退への憧れが勝るけどね」
「私は働いていないと不眠症になりそうです」
「若いうちはね。いや、でもどうかなあ。ぼくも一緒かもしれない。タカとユージのようにいつまでも現役でいたい気持ちがどこかにあるから、こうして休みの日によその店を視察してるんだろうし」
「視察でしたか」
「ウチみたいな大型店よりも選書が細やかでいいね。特に哲学書と歴史の棚が面白かった。この本をここに置くのかって驚きがあったよ」
黙って頭を下げた。
「よかったら、今度遊びに来てよ」
「ぜひ」
「じゃあオススメをいただいていこうか」
「ありがとうございます」
72歳の自分。まだ想像できない。願望ならある。文章を書き続けていたいし、著書を出してもいたい。そしてできることなら、何らかのかたちで本屋と関わりを持っていたい。短い時間だけレジに入るとかでもいい。現場から離れたところで的外れな批評をし、いまの私みたいな従業員に苦笑いされるのは御免だ。
その頃にはリアル書店はなくなってる? 関係ないね。地面とキスでもしてろ。私はこの業界で働き続けたい。ただの眠りを満喫するためにも。