「泣ける」の正体
伊予原新さんの「月まで三キロ」を読了しました。
これまで読んだ中でも屈指の短編集でした。大きな夢に挫折した経験のある方や「私の人生、こんなはずじゃなかった」「自分だけ取り残された」みたいな恥と後悔の念に縛られている人たちと感想を分かち合いたい。
私も挫折を繰り返し、社会の底辺でもがいています。同窓会とか行きたくない。でも少し前から「全ては天と己の意志。きっと意味がある」と受け止めるようになりました。僭越ながら「こういう生き方からしか得られぬ何かを社会に還元することを求められているのかな?」と捉えています。noteを始めた理由のひとつもそれでした。
同じような思いをお持ちの方、ぜひ読んでみてください。ただ一点気になるのは帯。黄色い紙に赤い字で「気づいたら、泣いていました」(担当編集)とプリントされているのです。
気持ちはわかります。どうしても手に取って欲しい、それぐらいいい本ですよと。でも人の感性は十人十色。世の中にはコメディを見て泣く人もいれば悲劇で笑う人もいます。映画館で他の全員が涙を拭っていても自分がおかしいと感じたら笑っていい。TPOとかもありますけど、鑑賞って本来そういうものですよね。
プロレスラー・小橋建太選手がガンから復帰した2007年12月の試合。彼がマシンガンチョップを必死の形相で決めた際、食らった秋山準選手は痛みに顔をしかめつつ「これだよなあ」とばかりに一瞬微笑みました。放送席では本田多聞選手が涙を見せました。私はあの場面が大好きです。
彼らはファンを感動させようと計算していたわけじゃありません。テレビ局も、あれに関してはそんな陳腐な意図で演出していたとは思えない(小橋選手が負けた瞬間の「小橋が勝ちました! 腎臓ガンに勝ちました!」という矢島アナの叫びは間違いなく生の感情でした)。とにかく全員が全力で一途で真摯でした。
新潮社の皆さん、「泣ける」って本当はこういう自然発生的なものじゃないでしょうか? もう少し読者の自由な解釈を信じて欲しいです。