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ハードボイルド書店員日記㊺

「俺、あの人好きなんだよ」

事務所。早番のバイトが総務の女性に話しかけている。彼はもう退勤する時間だ。すでに打刻をしたはずだが、解放感ゆえか帰ろうとしない。総務は仕事中だから迷惑だろう。店長が休みだと嗜める人がいない。

いわゆる「本に詳しいと自負する男が詳しくない女の気を惹こうとしている」構図だ。こういう場合の多くがそうであるように、男が一方的に捲し立てるのを女は黙って聞いていた。嵐が過ぎ去るのを巣穴でじっと待つ野ウサギのように。

「阿部和重、知らない?」「うん」バイト君が切れ長の瞳を左耳のピアスに劣らぬほど輝かせる。「一応芥川賞作家だよ」一応とはなんだ。心の中でツッコミを入れつつ、私は膨大な量のFAXを各担当者のクリアファイルへ仕分ける。

「じゃあ川上未映子は?」「その人は読んだ。『きみは赤ちゃん』っていうエッセイ。今後の参考にって友達から勧められて」男が一生体験できない「妊娠・出産」に纏わる女性の心理が赤裸々に綴られた名著だ。「阿部は彼女のダンナさん」「へえ」「どっちも芥川賞作家。阿部は『グランド・フィナーレ』川上は『乳と卵』で獲ったんだ」「へえ」ググったら一秒で判明する情報が彼の限界だった。

「先輩は阿部和重、知ってます?」間が持たないせいか、不意にバイト君が声を掛けてきた。「まあ」「何か読みました?」「いろいろ。『ニッポニア・ニッポン』とか」「そんなのありました?」おまえの好きな芥川賞の候補作だろう。受賞作しか興味ないのか。

「どんな内容ですか?」なぜか女性が食いついてきた。「佐渡島で保護されているトキを解放してあげようと息巻く引きこもりの話。ちなみに題は」「トキの学名ですよね。昔から興味あるんです。いまいるのは元々中国産じゃなかったですか? なのにそんな名前で」

思わず「素晴らしい」とつぶやいた。女性が「読みたいです」と熱っぽい視線を向けてくる。乃木坂の誰かに似ていると遅番の社員が評していた。ひとりもわからないが言わんとすることは理解できる。

「あ、その本は絶版す」バイト君が事務所のパソコンでチェックする。「新潮文庫はそうだね。講談社文庫でもあるはず。俺はそっちで持ってる」「講談社すか?」「『インディビジュアル・プロジェクション』とセットで。題は『IP/NN』」「了解です。あ、それもいまは入手不可でしたあ」声に明らかな棘があった。

「あの、よかったら貸していただけませんか?」FAXの分配を終えて帰ろうとした矢先、女性に呼び止められた。「けっこう線とか引いてるけど」「私、本は読めればOK派ですから」「図書館にあるよ、きっと」バイト君が横から口を挟む。彼女は「そうだね」と口元だけで微笑む。結局貸すことになった。

数週間後、退勤する際に「ありがとうございました」と紙袋を渡された。文庫本と一緒に某有名洋菓子の包みが入っている。「ありがとう。でもここまで」「色々な意味で助かりましたから」意味深な笑みを浮かべている。「あれから絡んでこなくなったんです」「悪いことしたかな」「いえいえ。私、彼氏いますから。来年結婚するんです」「ああ、それで『きみは赤ちゃん』を」「あの人、察しが悪くて。先輩のおかげでやっと諦めてくれました」言葉さえミュートすれば天使の姿そのものだった。

「ひとつ訊いていい?」「どうぞ」「本当は阿部さんのこと、知ってたよね?」無機質な右の眉がぴくりと動く。「どうしてそう思ったんですか?」「『きみは赤ちゃん』のもうひとりの主人公だから。川上さんを献身的に支えたり、理不尽な理由で怒られたりするエピソードが何度も出て来る。あの本を読んで彼に尊敬の念を抱かない人はいない」「さすがですね」何かを解き放つように左手で長い黒髪を掻き上げた。

「実は彼氏が阿部さんのファンで、トキがどうのこうのって作品を読みたがってたんです。あの人から借りようと思ったけど持ってなさそうだし」あの会話は彼女から切り出したものだったのだ。

「つまり君はこれを読んでない」答える代わりに上目遣いで見つめてきた。「もし『ブラック・チェンバー・ミュージック』もお持ちでしたら」発売されたばかりの単行本だ。2200円。「今度貸すよ」「助かります」頭の中にギターのイントロが鳴り響いた。近藤真彦が歌っている。天使のような。続きは言わない。

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