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「本当の自由」を教えてくれた二作
休載が長い名作マンガ。
真っ先に頭に浮かぶのは、やはり剣豪・宮本武蔵の歩みを描く井上雄彦「バガボンド」でしょうか。2015年から休載しています。
なかなか新刊が出ないので、読み返す頻度の低い巻を手放してしまいました。でも29巻だけは、いつでも開けるように机の近くに置いています。
沢庵が武蔵にこう告げるのです。
「わしの お前の 生きる道は これまでもこれから先も 天によって完璧に決まっていて それが故に完全に自由だ」
「根っこのところを天に預けている限りは」
完璧に決められているのに自由。矛盾?
ロシアの歴史的文豪・ドストエフスキーの代表作「カラマーゾフの兄弟」を思い出しました。
上巻にこんな文章が出てきます。
「いったん長老を選んだならば、あなた方は自己の意志を放棄し、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老の完全な服従下にさしだすのである」
「自己を制して、ついには一生の服従を通じて完全な自由、つまり自分自身からの自由を獲得し、一生かかっても自己の内に真の自分を見いだせなかった人々の運命をまぬがれることができる」
自己の意志を放棄するのが自由。やはり矛盾?
ふたつの作品が示唆する自由は、ロジックの産物ではありません。ゆえにどちらも矛盾していると映る。でもある時、小賢しい知識のモヤモヤを飛び越えて直観しました。本当の自由とはエゴに囚われぬことだと。
自我を捨てようと意識した状態も、やはり自我に囚われています。ならばどうにかして捨てようと意地を張るのではなく「お、あそこにエゴがいるなあ」と横目でチラ見し、あとは何となく流す。この姿勢を「自己の意志の放棄」とか「自分自身からの自由」と言い換えているのでは?
自分自分。何で俺だけ。そういう我欲に支配されたら心は不満に苛まれて不自由です。一方で何もかも諦めて思考停止し、権威や権力に服従するのも自由の放棄。では己の頭で考えながら必ずしもそこに拘泥せず、自他のいいところだけを拾っていく生き方は? 無用な自我を捨てるのではなく、その存在を認めたうえでスルーする姿勢は?
囚われぬ心で連載再開を気長に待ちます。
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