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『罪と罰』ドストエフスキー 「文学に意味があるとしたら」

このnoteは、本の内容をまだその本を読んでない人に対してカッコよく語っている設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『罪と罰』ドストエフスキー

○以下会話

■語りづがれる名著

 「記憶に残ってる小説か。そうだな、そしたらドストエフスキーの『罪と罰』がオススメかな。ドストエフスキーは言わずと知れたロシアの文豪で『カラマーゾフの兄弟』とか『白痴』とかが有名だよね。

よく「東大教授が薦める文学作品ベスト100」とかに入ってて、教養として読むべき本というイメージがあるんだけど、なんといってもめちゃくちゃ長いんだ。長い上に内容が難しいからなかなか進まなくて読む気が失せちゃうんだよ。

僕も高校生の時に挫折して以来読めないでいたんだけど、『罪と罰』の新訳を出版した亀山郁夫名古屋外国語大学学長の、『罪と罰』を読んだ体験談が魅力的で、僕も読んでみようかなって思ったんだ。ちょっと長いけど引用するね。

わたしが、はじめて『罪と罰』を手にしたのは、十四歳の年、中学三年の夏休みのことでした。父が買ってくれた世界文学全集の一冊だったこの小説を、わたしは偶然に手にとり、夢中になって読みはじめたのです。
主人公の青年ラスコーリニコフが二人の女性を殺す場面に、異様といえるほどの興奮を覚え、主人公と完全にシンクロし一体化していました。この場面を読み終えた翌朝、ブラスバンド部の練習のために家を出ようとして、わたしはふと「警察に逮捕されるのではないか」という恐怖にかられ、自転車のペダルを漕ごうとする足を止めたほどです。
恐怖と恍惚が入りまじる圧倒的な興奮と、そののちに押し寄せてきた孤独の感覚が、読書に拍車をかけました。主人公に同化したわたしは、絶望にひしがれながらペテルブルグの裏町をさまよいつづけました。十代半ばの子どもにも、人類の見えざる輪から切り離されるということの何たるかは理解できましたし、主人公が口づけする広場の土ぼこりの匂いまで感じとることができたのです。
そのときわたしは、罪を犯すことの恐怖と孤独を、おそらく何かしら啓示にも近いものとして体験していたにちがいありません。それはまさに、最初にして最後といってもよい、強烈な『罪と罰』体験でした。

殺人の場面を読んで、警察に逮捕されるのではないかという恐怖にかられたなんて聞いたら、読みたくなっちゃうよね。

この体験談を読んだことをきっかけに、「僕もこんな読書体験してみたい」って思って大学3年生の時に読んだんだ。亀山教授と同じ感覚にはならなかったけれど、僕は主人公のラスコーリニコフに自分と似てるものを感じて、それが割と衝撃的で、読んだことを誰にも言えなかった。

■あらすじ

『罪と罰』は文庫本で3冊にわたるくらい長い小説なんだけど、オリラジのあっちゃんがYoutubeであらすじを短く面白く紹介してるから一度見てみて欲しい。

僕の方でもちゃんと説明するね。『罪と罰』の舞台は、19世紀半ばのロシア。その頃のロシアは、農奴解放によって、それまで固定されていた職業と居住地を自由に選べるようになった時代だったんだ。自由が手に入った人々は都市に移動するんだけど、そこから財を成した人はごく僅かで、ほとんどは農民だった今までよりも更に貧しい暮らしをしていたんだよ。

そんな自分の欲望が自由に手に入る時代で、取り残されてしまった男が主人公なんだ。この主人公の7月7日から20日までの約2週間の行動を追った物語なんだよ。

主人公の名前はラスコーリニコフ。頭の良い青年でつい先日まで法学部の学生だったんだけど、授業料が払えず大学を辞めてしまい、仕事もなく、お金もなく、屋根裏部屋で鬱々と貧しい生活をしていたんだ。

このラスコーリニコフには一つの思想があったんだ。それは「天才による崇高な目的のためには凡人を犠牲にしても構わない」という思想。つまり「天才は凡人を犠牲にしても良い」という思想なんだ。

これは例えば、ナポレオンという一人の天才が革命を起こそうとした時、その障壁になるナポレオンを理解できない凡人を殺すことは致し方ないことで、殺人は正当化されるんだ、という考え方なんだ。

そしてラスコーリニコフはこの考え方のもと、街の高利貸しの老婆を殺そうと計画したんだよ。この高利貸しの老婆は、貧乏人に高い利子でお金を貸して一人だけ裕福に暮らしている悪い老婆だったんだ。

天才であるラスコーリニコフがこの老婆を殺すことは、街の皆が救われる世を変えることだから良いことなんだ、という考えを持ったんだよね。

そして実際に老婆の家にいき、お金を借りるふりをして斧をふりおろして老婆を殺すんだ。だけどひとつ想定外のことが起こったんだ。それは老婆の妹が家にやってきて、現場をみられてしまうんだよ。慌てたラスコーリニコフは、その妹も殺害して、金品を奪って家に帰ったんだ。

悪者である金貸しの老婆を殺すことは良かったんだけど、何の罪もないその妹も殺してしまったんだ。金貸の老婆は皆を救うという名目で殺したけれど、その妹は何の関係もないのに保身のために殺してしまったよね。妹を殺したとしても皆を救うことはできず、ただ自分のためだけに殺してしまっているんだ。

ここにラスコーリニコフは罪悪感を覚えて、急に怖くなってくるんだ。だけど自分に言い聞かせるんだよ。自分こそは選ばれた人間で自分は間違えていない。一人の天才が凡人を犠牲にするのは仕方のないことだって。

『罪と罰』は、ラスコーリニコフがこの本音と建前のはざまで揺れ動いて苦しんでいく様が描かれている小説なんだよ。「世を変える」という大義名分で老婆を殺したけれど、金品を奪ってその妹までも殺したということは、単に現状の貧しい暮らしを抜け出したくて「金が欲しかった」という本音があるのではないか。ラスコーリニコフ精神のゆらぎが非常に人間的で共感できて面白いんだ。

次の日、ラスコーリニコフは警察に呼び出されるんだ。何の証拠も残して来なかったはずなのに、こんなに早く呼び出されるのはおかしいと思い、恐る恐る署に向かうんだ。するとその要件は家賃の滞納のことで、ちゃんと払うように指導を受けただけだったんだよ。ラスコーリニコフはひとまず安心するんだけど、後ろで老婆殺しの捜査の会話が聞こえてきて、目の前が真っ白になって意識を失って倒れてこんでしまうんだ。

そのまま三日間意識不明の状態が続くんだよ。三日目に目を覚ましたラスコーリニコフは、寝ている最中に殺人のことを寝言でつぶやいていないか不安になるんだ。頭では殺人は正当だと理解してるけど、身体が反応してしまって、精神と肉体がバラバラになってるんだ。

そんな中、予審判事という日本でいう警察のような役割の男、ポルフィーリがラスコーリニコフを呼び出すんだよ。彼は既にラスコーリニコフが犯人ではないかとあたりをつけていたんだ。それはラスコーリニコフが学生の頃に書いた論文を読んだからなんだよ。そこには「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」というラスコーリニコフの思想が書かれているんだ。

ラスコーリニコフはポルフィーリの追求を何とかかわして家に帰るんだ。だけど下宿の前で「人殺し」と言われる声を聞くんだよ。ラスコーリニコフは慌てふためくけど、それは結局幻聴なんだ。そのくらい彼は追い詰められていたんだよ。

そんな時に、彼はソーニャという美しい娼婦に出会うんだ。ソーニャはラスコーリニコフを鏡合わせにしたような人間なんだ。彼女もラスコーリニコフと同様に貧しい暮らしをしていて、更に娼婦という職業のせいで人から後ろ指をさされているんだ。だけどラスコーリニコフと違うのは、彼女は綺麗な心で神様を信じていて立派に生きようとしているんだ。

その後もポルフィーリが現れたり、色んな人物とやり取りをしていく中で、ラスコーリニコフは罪の意識に耐えきれなくなるんだ。

自殺も考えたけれど、ソーニャにだけ罪を打ち明けることにするんだよ。

「理屈抜きで殺したくなったんだ。自分のためにね、自分一人のためだけに、殺したくなった!僕が殺したのは、母さんを助けるためじゃない!そんな馬鹿な!資金と権力を手に入れ、人類の恩人となるためでもない。そんなの馬鹿げてる!僕はただ殺した、自分のために殺したんだ、自分一人のためだけだ。<中略>
あの時、僕は本当にひと思いに自分を殺してしまった、永久に・・これからどうしたらいい、さあ、言ってくれ!」

ここで本音と建前が崩れて、「自分一人のためだけに殺した」と白状するんだ。

これを聞いたソーニャは涙をいっぱいにためて火のように輝く目でいうんだよ。「広場にいってひざまづいてあなたが汚した大地にキスをして私は人殺しです、と皆に聞こえるように言って。そうしたら神様がもう一度命を授けてくれる。」と。この言葉を聞いてラスコーリニコフはふてぶてしく笑うんだ。

この「ふてぶてしく笑う」という心情が難しいよね。これは、ラスコーリニコフがソーニャにだけ打ち明けたというところにヒントがあるんだ。

ラスコーリニコフはソーニャに期待と甘えがあったんだ。彼が望んでいた答えは「その秘密を抱えて二人で一緒に生きていきましょう。逃げましょう。」というものだったんだよ。だけど、純真なソーニャはその秘密を全世界に打ち明けなさいと彼の要望を突き放しているんだ。

そこにラスコーリニコフは思わず顔が歪んでしまうんだ。ソーニャという弱い立場にいる人に漬け込んで、甘えさせてくれると思ったら真っ当なことを言われて返り討ちにされてしまう。そして心に響きすぎて思わず薄笑いを浮かべてしまうんだよ。

ラスコーリニコフは、まだ心から反省はしていないんだ。罪の意識はまだ弱くて、罰への恐怖からソーニャに打ち明けただけなんだ。

なんで「大地にキスをして」と言ったかというと、母なる大地というように、キリスト教では大地と聖母マリアを関連づけて考えていて、そこからソーニャは大地に口付けするように促したんだ。神に告白しろってことだね。

その後再びポルフィーリが現れてラスコーリニコフに自首を進めるんだ。自首をすれば精神疾患だったということにして刑を軽くしてあげると歩み寄ってくれるんだ。そして「きみは太陽になりなさい。太陽になったら皆が君を仰ぎ見るようになる」とも言うんだよ。だけどラスコーリニコフは情状酌量する必要はないと提案を拒否するんだ。

中田あっちゃんの動画では、ラスコーリニコフVSポルフィーリの構造で「ポルフィーリはラスコーリニコフの敵」というスタンスで紹介しているけど、実は小説ではそこまで明確な対立構造にはないんだ。ポルフィーリは予審判事の立場からラスコーリニコフを救おうとしているんだよ。案外ソーニャとポルフィーリは同じ立場で、ラスコーリニコフという一人の哀れな男を二方向から寄り添ってあげているんだ。

だけどラスコーリニコフはその救いの手を跳ね返してしまうんだ。決死の覚悟でやった殺人に対して、手加減してあげるという情けをかけられて、プライドが邪魔して拒否してしまうんだよ。楽になれば良いのに。

この後も、事件に巻き込まれたり、ラスコーリニコフの妹に言い寄ってる男が自殺したり、いろいろなことが起こるんだ。

何日かして、ラスコーリニコフはふと広場を通りかかるんだ。すると急にソーニャが言っていた言葉を思い出して、思わずひざまづいて、大地に口付けして、罪を告白するんだよ。そして彼はポルフィーリのおかげもあって、シベリア流刑8年という軽い刑になるんだ。ソーニャも彼を追ってシベリアにいくんだよ。

その刑務所の中でもラスコーリニコフは、「あの時自殺してしまった方が良かったのかもしれない」とやっぱり心の中が揺れ動くんだ。

そんなある日に、ラスコーリニコフに面会したソーニャはそっと彼の手に触れるんだよ。ラスコーリニコフは人に触れたことで命を意識して、愛を確信して、そこから生きていくことにしたんだ。これで話は終わり。

■ラスコーリニコフの魅力

何と言っても『罪と罰』の魅力は、ラスコーリニコフという人間そのものだと思うんだ。彼の特徴を三つあげるね。

一つ目は正当化。彼は、本当はただお金が欲しいだけだったのに、世の中を変えるためだった、と殺人を正当化させているよね。ソーニャに罪を打ち明けるところでも、最初は「母さんを助けたかった」と言って、すぐ「悪魔に惑わされた」に変わって、最後は「ただ自分のために殺した」になってる。白状してる場面でさえ虚栄を張ってるんだ。

二つ目は心の揺らぎ。ラスコーリニコフは本当に心が定まらないんだ。ずっと殺人の動機で本音と建前で揺れ動いて、自分は本当は選ばれた人間じゃないかもしれないと思って、時間が経つと「僕は天才だ」ってなって、またすぐ一匹のノミかもしれないって思っちゃうんだよ。

そしてソーニャに罪を打ち明ける場面でも完全には反省していないし、大地に口付けして罪を全世界に打ち明けた後も、シベリアの刑務所の中で「やっぱり自首したことは間違っていたのかも。あの時自殺すればよかった。」ってまた迷うんだ。

なかなか心が定まらず、揺れ動いてしまう。ラスコーリニコフはそんな人間なんだ。

三つ目はソーニャへの甘え。終盤でソーニャにだけ罪を告白した場面からもわかる通り、ラスコーリニコフはソーニャに甘えてるんだ。そこに至るまでも、娼婦という弱い立場にいるソーニャに対して「君と僕は似ている」と言って、ソーニャには自分しかいないんだと思わせようとしているんだよ。

ソーニャにだけ罪を告白したのも、絶対一緒に逃げたかったんだと思う。ソーニャがまさか全世界に告白しろだなんて言うとは思わなかったんだろうな。

■ラスコーリニコフと僕

正直に白状すると、僕はラスコーリニコフに似てる部分がものすごくあるんだよ。だから初めて読んだ時ショックを受けたんだ。自分を見透かされるような気がして、できれば僕の周りの人は誰も『罪と罰』を読まないでほしいとさえ思ったんだよ。

もちろん人殺しをしたことないけれど、ラスコーリニコフの、自分の行動を正当化させてしまうとことか、結局心が揺れ動いてしまうとことか、誰かに甘えてしまうとことか。ものすごく似てる。びっくり。

例えば何かやらなきゃいけない仕事があって、本当はそれをやるのが嫌で逃げたいだけなのに、「これそもそも要らないんじゃないですか」みたいな根本から変えることを言って、結局やらずに逃げ切ろうとしてしまう。そしてそれを信頼できる人に言う。本音はやりたくないだけなのに、建前で真っ当に見える意見を言ってしまうんだよね。

もし僕が何かの理由で人を殺したとしたら、ラスコーリニコフと同じ心情になって同じ行動をとってしまうと思う。

そういう訳で僕にとっての『罪と罰』は、あまり人に勧めたくない小説なんだ。

■文学の意味:人間を知れる

『罪と罰』はラスコーリニコフの一つの思想から始まる物語だよね。「一人の天才は凡人を犠牲にしても良い」。このラスコーリニコフの犯罪思想とものすごくリンクするのが、2016年に相模原障害者施設殺傷事件を起こした植松聖死刑囚の考え方なんだ。

彼は当時、「意思疎通のできない人は生きてる価値がない」という考えのもと、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人を殺害して、職員を含む29人に重軽傷を負わせたんだ。

ラスコーリニコフの「天才は凡人を犠牲にしてよい」と植松聖死刑囚の「意思疎通のできない人は生きてる価値がない」という思想、ものすごく似ているよね。ほとんど同じだ。

彼の思想とか、精神状態とか、育ってきた環境とか、本当の詳しいところは僕はわかっていない。だけど、確実に言えることは彼は『罪と罰』を読んでいないと思うんだ。

もし『罪と罰』を読んで、ラスコーリニコフが独自の思想を持って金貸しの老婆を殺して、その後ソーニャに出会って命を実感する過程を読んでいたら、きっと植松死刑囚はこの事件を起こさなかったんじゃないかな。

それこそ最初に紹介した、亀山教授の中学3年生の頃のような読書体験をしていたら、人を殺すことはどんなに怖いことで、ラスコーリニコフの思想はどんなにおかしな思想なのか実感していたはずなんだ。そして今も被害にあったやまゆり園の入居者と職員さんたちは生きていたはず。

小説、ひいては文学って何の意味があるのかわかりにくいよね。化学とか物理学とか経済学とか法学とかは、意味がありそうだけど、文学って何に繋がるのかぼやっとしてる。就活にも弱そう。事実、僕は高校生の頃そう思って経済学部に入学した。

極論、別に文学に意味なんてなくて良いとは思うけれど、あえて意味づけするとしたら、人間を知れるという意味があると思う。

僕らは日々、色んな感情を持って色んな考えが浮かびながら生きているよね。自分でそれが消化できれば良いけれど、どうしてもわからないことがあったら、そんな時はぜひ文学に頼って欲しい。直接的な答えが書いてあるかはわからないけれど、そこには同じ悩みを持つ人がいて、同じ感情に苦しんでる人がいて、その人たちがどのように生きるかがきっと書かれているはずなんだ。

文学は全てを救ってくれるわけではないけれど、そこに感受性さえあれば、読むことを通して人間を知れて、自分を振り返ることができると思う。文学ってそんな意味があるんだ。」


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