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HKB(14)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(3/3)

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加藤友三郎、ワシントン会議に出席する

加藤友三郎は、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の海軍大臣に就任して以来、寺内正毅(てらうちまさたけ)、原敬(はらたかし)、高橋是清(たかはしこれきよ)内閣と4代の内閣にわたって海軍大臣を歴任します。

1921年(大正10年)、アメリカは、日英仏伊4か国に対し軍備の制限とアジア太平洋地域の問題を討議する会議を提案して来ました。
アメリカの目論見は、中国市場の門戸開放と、アジアでの日本の台頭を抑えることでした。

この会議に出席する日本の全権大使は、加藤友三郎海相、徳川家達(とくがわいえさと)貴族院議長、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)駐米大使でした。

左から幣原喜重郎・加藤友三郎・徳川家達(出典:Wikipediaより)

出発に際し、加藤友三郎は当時の原敬(はらたかし)首相から「国内のことは自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」との言葉を取り付けることができました。

ところが、ワシントン会議が始まる直前、1921年(大正10年)11月4日、原敬首相は、東京駅で暴漢に襲われ、暗殺されてしいます。

犯人は、原敬が財閥中心の政治をしていると批判していたとも、ワシントン軍縮会議に反対していたとも言われていますが、真相はわかっていません。

日本初の政党内閣を組閣した、立憲政友会の「平民宰相」原敬(出典:Wikipediaより)

この突然の訃報を聞いて、ワシントン会議にいた代表団は動揺し、帰国すべきという意見も出ましたが、友三郎がそれを押しとどめました。
原敬首相のためにも、この交渉をまとめる決意だったのです。

11月12日、ワシントン会議が始まりました。米国はヒューズ国務長官、イギリスはバルフォア外相、フランスはブリアン首相が参加しました。

会議の冒頭、米国のヒューズ国務長官が驚くべき提案を行います。それは、米英日の主力艦の比率を「10:10:6」とするという提案でした。
友三郎は、ヒューズ国務長官のこの提案に対して、

「日本は米国案の高遠な目的に感動し、主義において欣然とこの提案を受諾する。自らの軍備に大削減を加へる用意あり

(出典:海軍次官に宛てた「加藤全権伝言」より)

と応じ、積極的に軍縮協議に応じる態度を表明しました。
 
その後、詳細な協議は海軍専門委員会に場を移しましたが、日本側の委員が「対米英との比率は、7割でなければ応じられない」と主張したため、平行線をたどります。
 
そこで、加藤友三郎、ヒューズ国務長官、バルフォア外相の三人で非公式会談が行われることになりました。ここで、加藤友三郎が示した条件は、
 
・廃棄の対象とされた「戦艦陸奥」は復活させる
・グアム、フィリピンのアメリカ軍基地は、これ以上規模を拡大させない
 
というものであり、この条件がアメリカに受け入れられました。
こうして友三郎は、米英日の主力艦比率を、「10:10:6」とする提案に合意することを決断したのです。

戦艦陸奥(39050トン)。戦艦長門と共に連合艦隊の旗艦となった

当初、細身だった友三郎のことを「ロウソク」と揶揄(やゆ)していた外国人記者たちは、この急転直下の合意に驚き、

「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」
「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」

などと、手のひらを返して友三郎を絶賛するようになりました。
 
友三郎の決断は、日露戦争でロシアに勝った「好戦国、日本」のイメージを払しょくし、欧米諸国から歓迎されたのでした。
 
友三郎から日本の海軍次官に宛てた「加藤全権伝言」という文書が残っています。これは、掘悌吉(ほりていきち)海軍中佐に口述筆記させたものでした。
この中で、友三郎は、米英と合意した理由を次のように述べています。

国防は軍人の専有物にあらず。(中略)仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。

しからば、その金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。

しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞(ふさ)がるるが故に(中略)、結論として日米戦争は「不可能」である。

国防は、国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方、
外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

(出典:海軍次官に宛てた「加藤全権伝言」より)

加藤友三郎は、このままアメリカと軍拡競争をすれば、やがて日本の財政は破綻する、と気づいていました。

だからこそ、「いったん決めたことでも、間違いと気づいたら、やめる!」という積極果敢な勇気を発揮したのでした。
 
こうしてワシントン軍縮会議は1922年(大正11年)2月に閉幕しました。

ワシントン会議:1921年11月~1922年2月(出典:読売新聞オンラインより)

加藤友三郎、志半ばで病に斃れる

原敬首相が暗殺された後、大蔵大臣だった高橋是清が次の内閣を組閣しました。友三郎は、海軍大臣に留任したまま、ワシントン会議に臨んでいたのです。

しかし、高橋是清は、立憲政友会の総裁を原敬から引き継いだものの、党内をまとめきれず、内閣は瓦解しました。

1922年(大正11年)6月、ついに加藤友三郎に大命が降下し、内閣総理大臣に就任することになりました。

大礼服姿の加藤友三郎(出典:Wikipediaより)

友三郎は、ロシア革命に干渉する「シベリア出兵」を中止し、撤兵することを決めました。
また、ワシントン軍縮条約の批准、海軍予算の削減文教費の予算増額などを行っています。

しかし、翌1923年(大正12年)8月23日、加藤友三郎は、首相就任からわずか14か月後、突如として直腸がんで亡くなりました。享年63でした。

その8日後、「関東大震災」が発生します。日本は「首相不在」という異常事態の中で、この大災害を迎えることになってしまったのです。

*      *   *

1935年(昭和10年)、広島市南区の比治山公園に、海軍元帥の軍服姿の友三郎の銅像が建てられました。しかし、太平洋戦争当時の「金属類回収令」で供出されてしまい、いまは石造の土台部分のみとなっています。

比治山公園にある銅像の「台座」。被爆遺構でもある(出典:朝日新聞デジタルより)

2008年(平成20年)、有志の方々のご尽力により、広島市中区の広島市中央公園内に、加藤友三郎の銅像が新しく建立されました。
この銅像は、軍服姿ではなく、ワシントン軍縮会議に出席した時の「山高帽とフロックコート」の姿を模したものでした。

新しく建てられた加藤友三郎の銅像(出典;読売新聞社より)

もしよろしければ、「エディオンピースウイング広島」にお出かけの際には、この銅像を訪ねてみてください。
そして、「軍縮」を推進した加藤友三郎首相のことを、ぜひ思い出していただきたいと思います。

(参考文献)
①   加藤友三郎銅像保存会WEBサイト
②   横山久幸氏:水交社 第22回海軍歴史公開講座「加藤友三郎とその時代  の海軍-人物論の視点から-」


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