HKB(13)「取り舵一杯!」加藤友三郎、軍縮に舵を切る!(2/3)
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加藤友三郎、日露戦争の日本海海戦に参加する
1904年(明治37年)に始まった日露戦争では、加藤友三郎は、連合艦隊「第2艦隊」参謀長の職にありました。
ところが、途中で「第1艦隊」参謀長兼「連合艦隊」参謀長の島村速雄と入れ替わることになります。
友三郎を移動させる人事は、かねてより加藤友三郎を信頼していた山本権兵衛(やまもとごんべえ)海軍大臣の発案だという説があります。
折しも、陸軍の乃木希典(のぎまれすけ)率いる第三軍が1905年1月に旅順要塞を陥落させ、ロシアの旅順艦隊を壊滅させた頃でした。
次の作戦目標は、ヨーロッパからやってくる「バルチック艦隊」を日本近海で撃滅することだったからです。
来るべきバルチック艦隊との決戦のためには、「遠謀深慮」タイプの第1艦隊参謀長の島村速雄より、「積極果敢」な性格の第2艦隊参謀長の加藤友三郎のほうが適任だ、と山本大臣は考えたのでした。
ちなみに、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)を連合艦隊司令長官に任命したのも山本大臣でした。明治天皇にその理由を聞かれたとき、山本大臣が「東郷は運の良い男でありますので」と答えたという逸話も有名です。
加藤友三郎は、秋山真之(あきやまさねゆき)参謀をはじめとする部下の参謀たちに、バルチック艦隊を迎え撃つ作戦を立案させます。
それは、長崎の五島列島付近での遭遇戦を第1段とし、ウラジオストックまでの日本海を7つに区分して、バルチック艦隊を徐々に消耗させていくという「7段備えの戦法」でした。あくまでもバルチック艦隊を一隻も討ち漏らさないことが至上命題だったのです。
すでに近代の海戦に於いて、「砲撃」によって敵の軍艦を沈没させることができることは、日清戦争によって証明されていました。
あとは、有効射程距離である7000メートル以内に近づいた敵艦にどれだけの命中弾を浴びせることができるか、という勝負になります。
東郷平八郎と加藤友三郎は、連合艦隊の全艦船に連日のように射撃訓練を続けさせたのでした。
1905年(明治38年)5月27日。
ついに日本海海戦の日がやってきました。「敵艦見ユ」との報に接し、連合艦隊は直ちに出航します。
ところが、バルチック艦隊の正確な位置は、依然として掴めないままでした。索敵に出たいくつかの艦船が報告して来た敵の位置はバラバラで、どれが正しいのか判別が難しかったのです。
東郷平八郎は、やむなく巡洋艦「厳島(4210トン)」の報告して来た位置を正しいと判断して、バルチック艦隊を求めて南へと航行しました。
ところが「厳島」の測量に誤差があったため、予想に反してバルチック艦隊は連合艦隊から見て、やや左側の正面からこちらへ北上して来たのです。
この時、面舵(おもがじ)をとれば、つまり西側へ転針すれば、敵との正面衝突を避けられるはずでした。
しかし、それではバルチック艦隊は反対の東側へ進路を転じ、ウラジオストク港へ逃走してしまうおそれがありました。
三笠の砲術長であった安保清種(あぼきよかず)は、この瞬間のことを後日以下のように回顧しています。
加藤友三郎は、以心伝心で東郷平八郎の意図を即座に理解したのでした。三笠の艦橋に大声が響きます。
「トオォォリ カアァァァジィ! イッパイ!」
三笠は東側へと急旋回し、バルチック艦隊の進路をふさいだのです。
しかし、これでは先頭の三笠はバルチック艦隊の前に「横っ腹」をさらしてしまい、集中砲火を浴びる危険がありましたが、積極果敢にリスクを負ったのです。
バルチック艦隊が、先頭の三笠に砲弾を浴びせ始めた時、お互いの距離は5000メートルまで肉迫していました。
東郷平八郎、加藤友三郎、秋山真之らの3人は、弾丸の飛び交う中、吹きさらしの艦橋に立ちつくしたまま、全員の士気を鼓舞したのでした。
日露戦争後、日本にやって来た「黒船」ならぬ「白船」
日本海海戦の大勝利の後、アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトの仲介で「ポーツマス講和条約」が締結され、日露戦争はようやく終結しました。
しかし、ルーズベルトは、太平洋で突出して強大な存在になった日本に対して警戒感を強めていました。
そのため、1907年、アメリカ大西洋艦隊の新型戦艦16隻から編成された通称グレート・ホワイト・フリート(GWF)を「世界周航」させることを決断します。これは日本に対してアメリカの海軍力を誇示するためだったと言われています。
外務大臣だった小村寿太郎(こむらじゅたろう)は、率先してこのアメリカ艦隊の来日を歓迎します。アメリカとの緊張を高めるよりも、友好ムードを盛り上げるほうが得策、と判断したからでした。
1908年10月18日から25日まで、アメリカ艦隊は横浜港へ停泊しました。アメリカ海軍将校たちは園遊会や晩餐会に招待され、歓迎を受けました。
東郷平八郎も、戦艦三笠の艦上で歓迎会を催しています。
これ以降、アメリカ艦隊の威容を目の当たりにした日本海軍は、新たな「海軍拡張計画」に踏み切ります。
日露戦争開戦前までは、戦艦6隻装甲巡洋艦6隻を中核とする「六六艦隊」構想で海軍力を強化していました。
しかし、日露戦争で就役した艦は、すでに旧式となっていたため、新たに戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻を中核とする「八八艦隊」を建造する計画が構想されたのです。
1915年(大正4年)、 加藤友三郎は、海軍次官を辞した後、呉鎮守府長官を経て、第二次大隈重信内閣の海軍大臣に就任します。
前任者の八代六郎(やしろろくろう)海軍大臣が主導した、「八四艦隊」計画はすでに完成しており、大正6年に議会で予算が承認されました。
続いて、「八六艦隊」の予算が1918年(大正7年)に成立し、「八八艦隊」の予算は1920年(大正9年)に成立しました。
上のグラフで示す通り、一般会計予算(海軍)だけで、1921年(大正10年)のピーク時には5億円(現在の物価換算で4.5兆円ほど)にも膨れ上がっています。
「八八艦隊」の総予算は、当時の金額で16億円(現在の物価換算で14.4兆円ほど)という巨額なものでした。
なぜ、海軍は軍備拡大を急いだのでしょうか。
1920年代は、アメリカ・イギリスなどが激しい建艦競争を繰り広げる「軍拡」の時代だったのです。
以下に、米英日3か国の国家予算に占める「軍事費の割合」を比較してみましょう。(1919~1922年の平均)
日本:43.5%、アメリカ:23.0%、イギリス:22.6%
このとき海軍は、10倍以上のGNP(国民総生産)を持つアメリカを仮想敵国として、「軍拡」の道を突き進んでいたのでした。
(2/3「日露戦争編」おわり → 3/3「ワシントン軍縮会議編」へ続く)
尚、表紙の写真は、広島県立公文書館所蔵「加藤友三郎肖像」をお借りしました。
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