羊は安らかに草を食み
怒涛のうちに『羊は安らかに草を食み/宇佐美まこと』を読み終えた。読み終えたからといって怒涛の勢いが終わったわけではない。私はこの感想文を書くにあたって、何を伝えたらいいのか、自分は何を伝えたいのか、とても悩んでいた。戦争の悲惨さか、人の一生の辛さややるせなさか、それとも老いていく人間の尊厳か...。
「もうすぐ桜が咲くわねえ」
「そうね。またお花見に来なくちゃ」
優しげなタイトルで老人たちの他愛ない会話から物語は始まる。しかし実際はそんなに甘いものではなかった。
益江86歳、アイ80歳、富士子77歳、3人は俳句教室で知り合い仲良くなり、もう二十数年の付き合いになる。しかし、益江の認知症が進みまともな意思疎通が困難になってきた。益江の夫はひとりで妻のめんどうを診てきたが、妻を施設に入れる苦渋の決断をする。その前にアイと富士子に益江を旅に連れてってやってほしいと頼む。益江の心の奥底には何らかの「つかえ」があり、認知症によってそのつかえが露になり苦しんでいるのを施設に入る前に取り除いてやりたいという夫の願いだった。その願いを引き受けたアイと富士子は益江を連れて今まで益江が住んできた街をめぐる旅に出る。
3人の旅の様子と並行して語られるのが、益江の少女時代のことだ。10歳の益江は全ての家族を終戦の混乱の中で失い、満州で戦争孤児としてたったひとりで地獄のような場所にいた。明日のことはわからない、今死なないためだけに生きることを選んだ益江の様子が哀れでならない。この場面を読むときは本当に辛かった。戦争を知らない私でもある程度のことは映画や書物で知っていた。しかし、こんな酷いことが行われていたのは知らなかった。時に涙し、時にやるせなくなり、時に号泣しながら読み進めた。感情的になってはいけないと自分に言い聞かせるが、その制御は最も簡単に破られてしまう。
何にも、どの機関にも、忖度しない戦争の描き方がとても強烈だった。
でもそれは益江の消えていくであろう記憶の一部分にしか過ぎない。それからの益江の人生はどうなったのか、どうやって生き延びてきたのか、どうやって老後を迎えたのか、さまざまな要素が織り込まれている。アイと富士子は最初はただの付き添いとして旅に出た感覚であったが、益江の過去に接点があった人たちの話を聞き真実に触れる度に、自分の人生をも深く考えるようになる。
そして旅が終わる時が来る。
3人の老女の心の中はちゃんと人生を仕舞い方を見つけることができるのか。益江の胸のつかえは取れるのか、どちらにしても消えていく記憶と忘れ去ることができない記憶。そんなものを抱えて人は死ぬまで生きていくのだろう。
それでもたゆまず時は流れていく
最後の方に出てくる言葉だ。どんな嬉しいことがあっても、どんな不具合があっても、時は休まず流れていくのだ。でもその時を恨んではならない。時があるから人間は成長していくのだから。
最後は思わぬ方向に展開していく様は少し愉快でもあったが、やはり旅の終わりというのは誰が何と言おうと切なくて、切なくて、泣いてしまうのだ。
今、これを読めて良かった。戦争について知ることも重要だったが、いつか私が益江たちの年代になった時に、人生の仕舞い方に真摯に向き合うことができるような気がする。ただその時にこの物語のように目の前に「ありがとう」と言える人がいるかどうかは定かではないのであるが...
海ゆくとも、山ゆくとも、わが霊の休み、いずこにか得ん。
うきことのみ、しげきこの世、なにをかもかたく、たのむべしや
読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。